した過渡期の空気に包まれていたことも、半蔵の想像以上であった。彼も二、三日野口の家から離れてひとりであちこちの旧知を尋ねたり、森夫の奉公する日本橋本町の紙問屋へ礼に寄ったりしたから、その都度《つど》、大きな都会の深さにはいって見る時をも持った。漆絵《うるしえ》の画《えが》いてある一人乗りないし二人乗りの人力車がどれほど町にふえて来たと言って見ることもできないくらいで、四、五人ずつ隊を組んだ千金丹売《せんきんたんう》りの白い洋傘《こうもり》が動いて行くのも彼の目についた。新旧の移動が各自の生活にまで浸って来たこともはなはだしい。彼は故人となった師鉄胤の弔《くや》みを言い入れに平田家を訪ねようとして、柳原の長い土手を通ったこともある。そこには糊口《ここう》の途《みち》を失った琴の師匠が恥も外聞も思っていられないように、大道に出て琴をひくものすらあった。同門の医師金丸恭順のもとに一夜を語り明かして、その翌日今一度|旧《ふる》いなじみの多吉夫婦を見に左衛門町の家の格子戸《こうしど》をくぐったこともある。そこには樋口十郎左衛門《ひぐちじゅうろうざえもん》のような真庭流《まにわりゅう》の剣客ですらしばらく居候《いそうろう》として来て、世が世ならと嘆き顔に身を寄せていたという話も出た。剣道はすたれ、刀剣も用うるところなく、良心ある刀鍛冶《かたなかじ》は偽作以外に身の立てられないのを恥じて百姓の鍬《くわ》や鎌《かま》を打つという変わり方だ。一流の家元と言われた能役者が都落ちをして、旅の芸人の中にまじるということも不思議はなかった。これらが何を意味するかは、知る人は知る。幾世紀をかけて積み上げ積み上げした自国にある物はすべて価値なき物とされ、かえってこの国にもすぐれた物のあることを外国人より教えられるような世の中になって来た。しかし、これには拍車をかける力の追い追いと加わって来たのを半蔵も見のがすことはできなかった。外来の強い刺激がそれだ。当時この国の辱《はじ》とする治外法権を撤廃して東洋に独立する近代国家の形態をそなえたいにも、諸外国公使はわが法律と法廷組織の不備を疑い、容易に条約改正の希望に同意しないと聞くころである。まったく条約改正のことは、欧米諸国のことはおろか、東洋最近の事情にすら疎《うと》かった過去の失策のあとを承《う》けて、この国の前途に横たわる最大の難関であるとは、上下をあげてそれを感じないものもない。岩倉、大久保、木戸らの柱石たる人々が廃藩置県直後の国を留守にし三年の月日を海の外に送っても成し遂げることのできなかったこの難関を突き破るために、時の政治家はあらゆる手段を取りはじめたとも言わるる。法律と法廷組織の改正、法律専攻の人士の養成、調査委員の設置、法律専門の外国人の雇聘《こへい》、法律研究生の海外留学、外国法律書の翻訳なぞは、皆この気運を語らないものはない。もとより条約改正の成否は内閣の死活にもかかわるところから、勢力のある政治家はいかなる代償を払ってもこの国家の大事業に当たろうとし、従前司法省にあった法律|編纂局《へんさんきょく》を外務省に移し、外人を特に優遇し、外人に無礼不法の挙があってもなるべくそれを問わないような時が、多くのものの目の前にやって来ていた。その修正案の主要な項目なるものも、外人に対して実に譲りに譲ったものであった。第一、日本法廷の裁判官中に三十人ないし四十人の外国人判事を入れ、また十一人の外国人検事を入るる事。第二、法律を改正し、法廷用語は日英両国の国語となす事。第三、外国人に選挙権を与うる事。これほどの譲歩をしてまでも諸外国公使の同意を得ようとした当局者の焦躁《しょうそう》から、欧風に模した舞踏会を開き、男女交際法の東西大差ないのを粧《よそお》おうとすることも起こって来た。仮装も国家のため、舞踏も国家のため、夜会も国家のため、その他あらゆる文明開化の模倣もまた国家のためであると言われた。交易による世界一統が彼の勇猛な目的を決定するものであるとすれば、我もまた勢いそれを迎えざるを得ない。かつては金銭を卑しみ、今は金銭を崇拝する、それは同じことであった。この気運に促されて、多くの気の鋭いものは駆け足してもヨーロッパに追いつかねばならなかった。あわれな世ではある、と半蔵は考えた。過ぐる十五、六年の間この国ははたして何を生むことができたろう。遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたころには、人はこれほど無力ではなかったとも考えた。まことの近《ちか》つ代《よ》を開くために生まれて来たような本居宣長の生涯なぞがこんな時に顧みられようはずもなかった。橋本|雅邦《がほう》は海軍省の製図に通うといい、狩野芳崖《かのうほうがい》も荒物屋の店に隠れた。
おそらくもう一度来て見る機会はあるまいと思いながら、やがて悄然《しょう
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