のに気づき、それを堀のなかに捨てなどしながら、しばらく校舎の付近を立ち去りかねた。和助に聞くと、親しい学校友だちの一人が通って来る三十間堀《さんじっけんぼり》もそこからそう遠くない。その足で彼はそちらの方へも和助に案内させて行って見た。春先の日のあたった三十間堀に面して、こぢんまりとした家がある。亡《な》き夫の忘れ形見に当たる少年を相手に、寂しい日を送るという一人の未亡人がそこに住む。おりから和助の学校友だちは家に見えなかったが、半蔵親子のものが訪《たず》ね寄った時はその未亡人をよろこばせた。彼は和助の見ている前で、手土産がわりに町で買い求めた九年母《くねんぼ》を取り出し、未亡人から盆を借りうけて、いきなりツカツカと座をたちながら、そこに見える仏壇の前へ訪問のしるしを供えたというものだ。その時の彼の振る舞いほど和助の顔を紅《あか》らめさせたこともなかった。父のすることはこの子には、率直というよりも奇異に、飄逸《ひょういつ》というよりもとっぴに、いかにも変わった人だという感じを抱《いだ》かせたらしい。彼にして見ればかつて飛騨《ひだ》の宮司《ぐうじ》をもつとめたことのある身で、このくらいの敬意を不幸な家族に表するのは当然で、それに顔を紅らめる和助の子供らしさがむしろ不思議なくらいだった。彼は都会に遊学する和助の身のたよりなさを思って、東京在住の彼が知人の家々をも子に教えて置きたいと考える。そこで、ある日また、両国方面へと和助を誘い出した。本所横網《ほんじょよこあみ》には隅田川《すみだがわ》を前にして別荘風な西洋造りの建物がある。そこには吉左衛門時代から特別に縁故の深い尾州家の老公(徳川|慶勝《よしかつ》)が晩年の日を送っている。老公と半蔵との関係は、旧《ふる》い木曾谷の大領主と馬籠の本陣問屋庄屋との関係である。半蔵は日ごろ無沙汰《ぶさた》のわびをかねて老公を訪ね、その人の前へ和助を連れて出た。彼は戊辰《ぼしん》前後の国事に尽力したことにかけては薩長《さっちょう》諸侯に劣らない老公のような人をも自分の子に見て置けというつもりで、当時和助が東京の小学校に在学するよしを老公に告げた。老公が和助の年齢を尋ねるから、半蔵は十三歳と答えながら、和助の鉛筆で写生した築地《つきじ》辺の図なぞを老公の笑い草にそなえた。その時も和助は父のそばにいて、ただただありがた迷惑なような顔ばかり。本所横網の屋敷を辞してから、半蔵が和助を案内して行ったのは旧両国広小路を通りぬけて左衛門橋《さえもんばし》を渡ったところだ。旧《ふる》いなじみの多吉夫婦が住む左衛門町の家だ。和助はどうして父がそんな下町風《したまちふう》の家の人たちと親しくするのか何も知らないから、一別以来の話が出たり、飛騨の山の話が出たり、郷里の方の話まで出たりするのをさも不思議そうにしていた。久しぶりの半蔵が子まで連れて訪ねて行ったことは、亭主《ていしゅ》の多吉やかみさんのお隅《すみ》をよろこばせたばかりでなく、ちょうどそこへ来合わせている多吉夫婦の娘お三輪《みわ》をも驚かした。お三輪ももううつくしい丸髷姿《まるまげすがた》のよく似合うような人だ。
「へえ。青山さんには、こんなお子さんがおありなさるの。」
と言いながら、お三輪は膝《ひざ》を突き合わせないばかり和助の前にすわって、何かこの子をよろこばせるようなものはないかと母親に尋ね、そこへお隅が紙に載せた微塵棒《みじんぼう》を持って来ると、お三輪はそれを和助のそばに置いて、これは駄菓子《だがし》のたぐいとは言いながら、いい味の品で、両親の好物であるからと言って見せたりした。
父と共にある時の和助が窮屈にのみ思うらしい様子は、これらの訪問で半蔵にも感じられて来るようになった。この上京には、どんなにか和助もよろこぶであろうと思いながら出て来た半蔵ではあるが、さて、足掛け四年ばかりもそばに置かない子と一緒になって見ると、和助はあまり話しもしない。父子の間にはほとほと言葉もない。ただただ父は尊敬すべきもの、畏《おそ》るべきもの、そして頑固《がんこ》なものとしか子の目には映らないかのよう。この少年には、父のような人を都会に置いて考えることすら何か耐えがたい不調和ででもあるかのようで、やはり父は木曾の山の中の方に置いて考えたいもの――あのふるさとの家の囲炉裏ばたに、祖母や、母や、あるいは下男の佐吉なぞを相手にして静かな日を送っていてほしいとは、それがこの子の注文らしい。どうやら和助は、半蔵が求めるような子でもなく、彼の首ッ玉にかじりついて来るような子でもなく、追っても追っても遠くなるばかりのような子であった。これには彼は嘆息してしまった。どれほどの頼みをかけて、彼もこの子を見に都の空まではるばると尋ねて来たことか。
再び見る東京の雑然紛然《ごたごた》と
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