には、彼は中仙道《なかせんどう》の方を回らないで美濃路から東海道筋へと取り、名古屋まで出て行った時にあの城下町の床屋で髪を切った。多年古代紫の色の紐《ひも》でうしろに結びさげていた総髪の風俗を捨てたのもその時であった。彼は当時の旅人と同じように、黒い天鵞絨《びろうど》で造った頭陀袋《ずだぶくろ》なぞを頸《くび》にかけ、青毛布《あおげっと》を身にまとい、それを合羽《かっぱ》の代わりとしたようなおもしろい姿であったが、短い散髪になっただけでもなんとなく心は改まって、足も軽かった。当時は西の京都|神戸《こうべ》方面よりする鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線も政府の方針は東山道に置いてあったから、東海道筋にはまだその支線の起工も見ない。時には徒歩、時には人力車や乗合馬車などで旅して行って、もう一度彼は以前の東京の新市街とは思われないほど繁華になった町中に彼自身を見いだした。天金《てんきん》の横町と聞いて行って銀座四丁目の裏通りもすぐにわかった。周囲には時計の修繕をする店、大小の箒《ほうき》の類《たぐい》を売る店、あるいは鼈甲屋《べっこうや》の看板を掛けた店なぞの軒を並べた横町に、土蔵造りではあるが見付きの窓や格子戸《こうしど》も「しもたや」らしい家の前には、一人の少年がせっせと手桶《ておけ》の水をかわいた往来にまいていた。それが和助だった。
この上京には半蔵も多くの望みをかけて行った。野口の人たちにあって、そこに修業時代を始めたような和助の様子を聞き、今後の世話をもよく依頼したいと思うことはその一つであった。国を出てもはや足掛け四年にもなる子を見たいと思うことはその一つであった。明治八年以来見る機会のなかった東京を再び見たいと思うこともまたその一つであった。野口の家の奥の部屋《へや》で、書生を愛する心の深い主人の寛、その養母のお婆さん、お婆さんの実の娘にあたる細君なぞの気心の置けない人たちが半蔵を迎えてくれた。主人の寛は植松弓夫と同郷で、代言人(今の弁護士)として立とうとする旧士族の一人であり、細君やお婆さんはこの人を助けて都会に運命を開拓しようとする健気《けなげ》な婦人たちであった。その時この家族の人たちはかわるがわる心やすい調子で、和助を引き取ってからこのかたのことを半蔵に話した。なにしろ木曾の山の中の木登りや山歩きに慣れた子供を狭苦しい都会の町中に置いて見ると、いたずらもはげしくて、最初のうちは近所の家々から尻《しり》の来るのにも困ったという。和助の世話をし始めたばかりのころは、お婆さん霜焼けが痛いと言って泣き出すほどの子供で、そのたびにそばに寝ているお婆さんが夜中でも起きて、蒲団《ふとん》の上から寒さに腫《は》れた足をたたいてやったこともあるとか。でも、日に日に延びて行く子供の生長は驚くばかり、主人はじめ末頼もしく思っているから、そんなに心配してくれるなという話も出た。そこは普通の住宅としても間取りの具合なぞは割合に奥行き深く造られてある。中央に廊下がある。高い明り窓は土蔵造りの屋内へ光線を導くようになっている。飼われている一匹の狆《ちん》もあって、田舎《いなか》からの珍客をさもめずらしがるかのように、ちいさなからだと滑稽《こっけい》な面貌《かおつき》とで廊下のところをあちこちと走り回っている。それも和助の友だちかとみて取りながら、半蔵は導かれて奥の二階の部屋に上がり、数日の間、野口方に滞在する旅の身ともなった。半蔵のそばへ来る和助は父が顔の形の変わったことにも驚かされたというふうで、どこでそんなに髪を短くしたかと尋ね、お父さんも開けて来たと言わないばかりの生意気《なまいき》ざかりな年ごろになっていた。子供はおかしなもので、半蔵が外出でもしようとする前に旅行用の小さな鏡の桐《きり》の箱にはいったのを取り出すと、すぐそれに目をつけ、お父さん、男が鏡を見るんですかと尋ねるから、そりゃ男だって見る、ことに旅に来ては鏡を見て容儀を正しくしなければならないと彼が答えたこともある。彼は和助の通う学校も見たく、その学校友だちをも見たい。子弟の教育に熱心な彼は邪魔にならない程度にその学窓の周囲をも見て行きたい。そこで、ある日、彼は和助に案内させてうわさにのみ聞く数寄屋橋《すきやばし》わきの小学校へと足を向けた。ちょうど休日で、当時どの校舎でも高く掲げた校旗も見られず、先生方にもあえず、余念もなく庭に遊び戯るる男女の生徒らが声をも聞かれなかったが、卒業に近い課程を和助が学び修めているという教場の窓を赤煉瓦《あかれんが》の建物の二階の一角に望むことはできた。思い出の深い常磐橋《ときわばし》の下の方まで続いて行っている堀《ほり》の水は彼の目にある。彼はその河岸《かし》を往復する生徒らがつまずきそうな石のある
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