、当時朝鮮方面に大いに風雲の動きつつあることを聞いて、有志のものと共にかの地に渡ることを約束し、遠からず郷里を辞するはずであるという。この朝鮮行きには彼はどれほどの年月を費やすとも言いがたいが、いずれ帰国の上はまた山林事件を取りあげて、新規な方針で素志を貫きたいとの願いであるとか。
 半蔵には正己の言うことが一層気にかかって来た。
「まあ、こういう事はとかく横道へそれたがりがちだ。これから先、どういう方針になって行こうと、山林事件の出発を忘れないようにしてくれ。おれがお前に言って置くことは、ただそれだけだ。」
 それぎり半蔵は山林事件について口をつぐんでしまった。彼が王滝の戸長遠山五平らと共に出発した最初の単純な心から言えば、水と魚との深い関係にある木曾谷の山林と住民の生活は決して引き放しては考えられないものであった。郡県政治の始まった際に、新しい木曾谷の統治者として来た本山盛徳は深くこの山地に注目することもなく、地方発達のあとを尋ねることもなく、容易に一本の筆先で数百年にもわたる慣習を破り去り、ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活とを切り離してしまった。まことの林政と申すものは、この二つを結びつけて行くところにあろうとの半蔵の意見からも、よりよい世の中を約束する明治維新の改革の趣意が徹底したものとは言いがたく、谷の前途はまだまだ暗かった。


 三男の森夫と四男の和助が東京で撮《と》った写真は、時をおいて、二枚ばかり半蔵の手にはいったこともある。遠く都会へ修業に出してやった子供たちのこととて、それを見た時は家じゅう大騒ぎした。一枚は正己が例の山林事件で上京のおりに、弟たちと一緒に撮って携え帰ったもの。ちょうど正己の養父寿平次も入れ歯の治療に同行したという時で、その写真には長いまばらな髯《ひげ》をはやした寿平次が妻籠の郵便局長らしく中央に腰掛けて写っている。寿平次も年を取った。その後方《うしろ》に当時流行の襟巻《えりま》きを首に巻きつけ目を光らせながら立つ正己、髪を五|分《ぶ》刈りにして前垂《まえだれ》掛けの森夫、すこし首をかしげ物に驚いたような目つきをして寿平次の隣に腰掛ける和助――皆、よくとれている。伏見屋|未亡人《みぼうじん》のお富から、下隣の新宅(青山所有の分家)を借りて住むお雪婆さんまでがその写真を見に来て、森夫はもうすっかり東京日本橋本町辺のお店《たな》ものになりすましていることの、和助の方にはまだ幼顔《おさながお》が残っていることのと、兄弟の子供のうわさが出た。今一枚の写真は、妻籠の扇屋得右衛門《おうぎやとくえもん》の孫がその父実蔵について上京したおりの土産《みやげ》である。浅草《あさくさ》公園での早取り写真で、それには実蔵の一人子息《ひとりむすこ》と和助とだけ、いたいけな二少年の姿が箱入りのガラス板の中に映っている。
「アレ、これが和助さまかなし。まあこんなに大きくならっせいたか。」
 またしても伏見屋未亡人なぞはそのうわさだ。
 半蔵は飛騨の旅から帰って幼いものの頭をなでて見た時のこころもちを忘れない。こんな二枚の写真を見るにつけても、彼は都会の方にいる子供らの成長を何よりの楽しみに思った。お粂夫婦の話によると、あの和助のことは旧岩村藩士で碁会所でも開こうという日向照之進方によく頼んで置いて来たと言うが、正己が東京に日向家を訪《たず》ねて見た時の様子では長く弟を託して置くべき家庭とも思われなかったという。その力量は立派に二、三段級の棋客の相手になれるが、長く独身でいて、三度三度の食事のしたくするにも物の煮えるのを待てないほど気がせわしく、早く煮て、早く食って、早く片づけて、さらにまた食い直したいと考えるような、せかせかした婦人が弟の世話をしていた。この人が日向の「姉さん」だ。見ると和助は青くなっている。この日向家から弟に暇《いとま》を告げさせ、銀座四丁目の裏通りに住む木曾福島出身の旧士族野口寛の家族のもとに少年の身を寄せさせることにしたのも、正己の計らいからであった。半蔵の耳に入る子供の話はしきりに東京の方の空恋しく思わせるようなことばかり。下隣のお雪婆さんも一度上京のついでに、和助を見た土産話をさげて帰って来た。山家《やまが》育ちの和助も今は野口家の玄関番で、訪ねて行ったお雪婆さんが帰りがけに見た時は、彼女の下駄《げた》まで他の訪問客のと同じように庭の敷石の上に直してあったと言って、あのいたずらの好きな子がと思うと、婆さんも涙が出たとか。
 明治十七年の四月には半蔵は子供を見にちょっと上京を思い立った。万事倹約の際ではあったが、父兄に代わって子供の世話をしてくれる野口家の人たちが厚意に対しても、それを頼み放しにして置くことは彼の心が許さないからであった。この東京行き
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