右親族決議によって我ら隠宅へ居住の上は前記の件々を確守し、後日に至り異議あるまじく候|也《なり》。
[#地から7字上げ]本人
   明治十七年三月三日[#地から3字上げ]半蔵
[#地から7字上げ]保証人
[#地から3字上げ]正己
[#地から3字上げ]省三
[#地から3字上げ]栄吉
[#地から3字上げ]又三郎
[#地から3字上げ]清助
[#地から3字上げ]小左衛門
[#地から3字上げ]伊之助
[#地から3字上げ]新助
[#地から3字上げ]庄助
     宗太殿
「お民、これじゃ手も足も出ないじゃないか。酒は五勺以上飲むな、本家への助言もするな、入り用な金も決して他《よそ》から借りるなということになって来た。おれも、どうして年を取ろう。」
 半蔵が妻に言って見せたのも、その時である。


 次男正己は妻籠の養家先から訪《たず》ねて来て、木曾谷山林事件の大長咄《おおながばなし》を半蔵のもとに置いて行ったことがある。正己の政治熱はお粂の夫《おっと》弓夫とおッつ、かッつで、弓夫が改進党びいきならこれは自由党びいきであり、二十四歳の身空《みそら》で正己が日義村《ひよしむら》の河合定義《かわいさだよし》と語らい合わせ山林事件なぞを買って出たのも、その志士もどきの熱情にもとづく。もとよりこの事件は半蔵が生涯の中のある一時期を画したほどであるから、その素志を継続してくれる子があるなら、彼とても心からよろこばないはずはなかった。ただ正己らが地方人民を代表する戸長の位置にあるでもないのに、木曾谷十六か村(旧三十三か村)の総代として起《た》ったことには、まずすくなからぬ懸念《けねん》を誘われた。
 長男の宗太も次男の正己も共に若い男ざかりで、気を負うところは似ていた、公共の事業に尽力しようとするところも似ていた。宗太の方は、もしその性格の弱さを除いたら、すなわち温和勤勉であるが、それに比べると正己は何事にも手強く手強くと出る方で、争い戦う心にみち、てきぱきしたことをよろこび、長兄のやり方なぞはとかく手ぬるいとした。この正己が山林事件に関係し始めたのは、第二回目の人民の請願も「書面の趣、聞き届けがたく候事」として、山林局木曾出張所から却下されたと聞いた明治十四年七月のころからである。そこで正己は日義村の河合定義と共に、当時の農商務卿|西郷従道《さいごうつぐみち》あてに今一度この事件を提出することを思い立ち、「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものを懐《ふところ》にして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。
 正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来|明山《あきやま》の分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡に鑑《かんが》み、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶ旨《むね》を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城《よしき》、益田《ましだ》の三郡共有地、および美濃国は恵那《えな》郡、付知《つけち》、川上、加子母《かしも》の三か村が山地の方のことをも引き合いに出したものであった。農商務省まで持ち出して見た今度の嘆願も、結局は聞き届けられなかった。正己らは当局者の説諭を受けてむなしく引き下がって来た。その理由とするところは、以前の筑摩《ちくま》県時代に権中属《ごんちゅうぞく》としての本山盛徳が行なった失政は政府当局者もそれを認めないではないが、なにぶんにも旧尾州領時代からの長い紛争の続いた木曾山であり、全山三十八万町歩にもわたる名高い大森林地帯をいかに処分すべきかについては、実は政府においてもその方針を定めかねているところであるという。
 正己は言葉を改めて心機の一転を半蔵の前に語り出したのもその時であった。彼はこれまで人民が執り来たった請願の方法のむだであることを知って来たという。木曾山林支局を主管する官吏は衷心においてはあの本山盛徳が定めたような山林規則の過酷なのを知り、人民の盗伐にも苦しみ、前途百年の計を立てたいと欲しているが、ただ自分らを一平民に過ぎないとし、不平の徒として軽んじているのである。これは不信にもとづくことであろうから、よろしく適当な縁故を求めて彼らと友誼《ゆうぎ》を結び、それと親通するのが第一である。彼はそう考えて来たが
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