蔵らにも考えられることであった。
五平は半蔵の方を見て、
「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに。」
こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉り候《そうろう》御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、今般の御改革で郡県の政治を行なわれるについては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたいと述べてある。別に年来の情実を本庁の官吏によく知ってもらうため、谷中の人民から旧領主に訴えたことのある古い三通の願書の写しをも添えることにしてある。
「この古い願書の写しを添えて出すことが大切です。」
「さようだ。今日にはじまった問題でもないことがわかりますで。」
二人《ふたり》はこんな言葉をかわした。いよいよ来たる五月の十二日を期して再度の嘆願書を差し出すことから、その前日までに贄川《にえがわ》に集まって、四人の総代だけが一同に代わり松本へ出頭するまでの手はずも定《き》まった。もし本庁の官吏から今日人民の難渋する事情を問いただされたら、四人のもの各自に口頭をもって答えよう、支庁主任のさしずによる山林規則には谷中の苦情が百出して、総代においても今もってお請けのできかねる事情を述べようと申し合わせた。
五平は言った。
「この嘆願書の趣意は、官有林を立て置かれることに異存はない。御用材|伐《き》り出し等の備え場も置かねばなるまいから、それらの官有林にはきびしくお取り締まりの制度を立てて、申し渡されるなら、きっと相守る。そのかわり明山《あきやま》は人民に任せてくれ。新規則以来、人民私有の山地まで官有に併《あわ》せられた場処も多くあるが、これも元々どおりに解かれたい。大体にこういうことになりましょう。つまり――一般公平の御処置を仰ぎたい。今のうちに官民協力して、前途百年の方針を打ち建てて置きたい。享保以前の古《いにしえ》に復したいということですな。」
ここへ来るまで、半蔵は野尻《のじり》の旅籠屋《はたごや》でよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して禰宜《ねぎ》の家に一晩泊まった翌朝になって、ひどく疲れが出た。禰宜宮下の主人が里宮の社殿のあるところまで朝勤めに通《かよ》って行って、大太鼓を打ち鳴らしてからまた数町ほどの山道を帰るころでも、彼はゆっくり休んでいた。家の人の雨戸を繰りに来る音を聞くようになって、ようやく彼は寝床からはい出した。
「だいぶごゆっくりでございますな。」
と言って、宮下の細君が熱い茶に塩漬《しおづ》けの小梅を添えて置いて行ってくれるころが、彼には朝だった。
里宮の神職と講中《こうじゅう》の宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった山麓《さんろく》の位置にある。木曾山のことを相談する必要が生じてから、過ぐる年も半蔵は王滝へ足を運び、遠山の家を訪《と》うおりには必ずこの禰宜のところへ来て泊まったが、来て見るたびに変わって行く行者《ぎょうじゃ》宿の光景が目につく。ここはもはや両部神道の支配するところでもない。部屋《へや》の壁の上に昔ながらの注連縄《しめなわ》なぞは飾ってあるが、御嶽山《おんたけさん》座王大権現《ざおうだいごんげん》とした床の間の軸は取り除かれて、御嶽三社を祀《まつ》ったものがそれに掛けかわっている。
「青山さん、まあきょうは一日ゆっくりなすってください。お宮の方へ御案内すると言って、忰《せがれ》のやつもしたくしています。」
と禰宜も彼を見に来て言った。過ぐる文久《ぶんきゅう》三年、旧暦四月に、彼が父の病を祷《いの》るためここへ参籠《さんろう》にやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。あの時同伴した落合の勝重なぞはまだ前髪をとって、浅黄色《あさぎいろ》の襦袢《じゅばん》の襟《えり》のよく似合うほどの少年だった。
「あれからもう十一年にもなりますか。そ
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