た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる嘉永《かえい》六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里《くり》が浜《はま》の沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田《しもだ》へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上る鮎《あゆ》のようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。
 福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、行人橋《ぎょうにんばし》から御嶽山道について常磐《ときわ》の渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてある筏《いかだ》を待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の禰宜《ねぎ》の家の人たちの声を久しぶりで聞いた。
「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな。」
「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい。」


 王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない住居《すまい》の方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半蔵の協力者で、谷中総代十五名の中でも贄川《にえがわ》、藪原《やぶはら》二か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたくの整ったというのも、上松《あげまつ》から奥筋の方を受け持った五平の奔走の力によることが多かった。それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の山麓《さんろく》に住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての地方《じかた》の世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた人民の苦痛を最も直接に感ずるものの一人もこの旧《ふる》い庄屋だからであった。王滝は馬籠あたりのように木曾街道に添う位置にないから、五平の家も本陣問屋は兼ねず、したがって諸街道の交通輸送の事業には参加しなかったが、人民と土地とのことを扱う庄屋としては尾州代官の山村氏から絶えず気兼ねをされて来たほどの旧い家柄でもある。
 半蔵が禰宜《ねぎ》の家に笠《かさ》や草鞋《わらじ》をぬいで置いて、それから訪《たず》ねて行った時、五平の言葉には、
「青山さん、わたしのように毎日山に対《むか》い合ってるものは、見ちゃいられませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」
 というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼う鯉《こい》か、王滝川まで上って来る河魚《かわうお》ぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚《さんま》なぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記《そらん》じていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。
 いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、山守《やまもり》があり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には莫大《ばくだい》な人手と費用とを要し、小谷狩《こたにがり》、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが十露盤《そろばん》ずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の氾濫《はんらん》に備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた地方《じかた》の人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の嶮岨《けんそ》な難場《なんば》であり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によって護《まも》られ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半
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