に飛騨《ひだ》時代以来の『常葉集《とこわしゅう》』なぞの整理を思い立った時であるが、それらの歌稿を書き改めているうちに、自分の生涯に成し就《と》げ得ないもののいかに多いかにつくづく想《おも》いいたった。傾きかけた青山の家の運命を見まもるにつけても、いつのまにか彼の心は五人の子の方へ行った。それぞれの道をたどりはじめている五人の姉弟《きょうだい》のことは絶えず彼の心にかかっていたからで。
姉娘のお粂《くめ》がその旦那《だんな》と連れだって馬籠へ訪《たず》ねて来たのは、あれは半蔵らのまだ本家の方に暮らしていた明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区|鎗屋町《やりやちょう》の方にあった世帯《しょたい》を畳《たた》み、半蔵から預かった二人《ふたり》の弟たちをも東京に残して置いて、一家をあげて郷里の方へ引き揚げて来たころのことであったが、夫婦の間に生まれた二番目の女の子を供の男に背負《おぶ》わせながら妻籠《つまご》の方から着いた。お粂は旦那と同年で、年齢の相違したものが知らないような心づかいからか、二十八の年ごろの細君にしては彼女はいくらか若造りに見えた。でも、お粂はお粂らしく、瀟洒《こざっぱり》とした感じを失ってはいなかった。たまの里帰りらしい手土産《てみやげ》をそこへ取り出すにも、祖母のおまんをはじめ宗太夫婦に話しかけるにも、彼女は都会生活の間に慣れて来た言葉づかいと郷里の訛《なま》りとをほどよくまぜてそれをした。背は高く、面長《おもなが》で、風采《ふうさい》の立派なことは先代|菖助《しょうすけ》に似、起居振舞《たちいふるまい》も寛《ゆるや》かな感じのする働き盛りの人が半蔵らの前に来て寛《くつろ》いだ。その人がお粂の旦那だ。その青年時代には同郷の学友から木曾谷第一の才子として許された植松弓夫だ。
弓夫は半蔵のことを呼ぶにも、「お父《とっ》さん」と言い、義理ある弟へ話しかけるにも「宗太君、宗太君」と言って、地方のことが話頭《はなし》に上れば長崎まで英語を修めに行ったずっと年少《としわか》なころの話もするし、名古屋で創立当時の師範学校に学んだころの話もする。弓夫は早く志を立てて郷里の家を飛び出し、都会に運命を開拓しようとしたものの一人《ひとり》であった。これは先代菖助が横死の刺激によることも、その家出の原因の一つであったであろう。弓夫は何もかも早かった。郷党に先んじて文明開化の空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を送ったこともあり、政治に興味を持って改進党に加盟したこともあり、民間に下ってからは植松家伝の処方によって謹製する薬を郷里より取り寄せ、その取次販売の路《みち》をひろげることを思い立ち、一時は東京|池《いけ》の端《はた》の守田宝丹《もりたほうたん》にも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで造らせたが、結局それも士族の商法に終わり、郷里をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かる主《おも》な給人であり砲術の指南役ででもあった先代菖助がのこして置いて行った大きな屋敷と、家伝製薬の業とは、郷里の方にその彼を待っていた。しかし、そこに長い留守居を預かって来た士族出の大番頭たちは彼がいきなりの帰参を肯《がえん》じない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく、西は美濃《みの》尾張《おわり》から北は越後《えちご》辺まで行商に出て、数十里の路を往復することもいとわずに、植松の薬というものを護《まも》って来たのもその大番頭たちであった。文明開化の今日、武家の内職として先祖の始めた時勢おくれの製薬なぞが明日の役に立とうかと言い、もっと気のきいたことをやって見せると言って家を飛び出して行った弓夫にも、とうとう辛抱強い薬方《くすりかた》の前に兜《かぶと》を脱ぐ時がやって来た。その帰参のかなうまで、当時妻籠の方に家を借りて、そこから吾妻村《あずまむら》小学校へ教えに通《かよ》っているというのも弓夫だ。
「やっぱり先祖の仕事は根深い。」
とは、弓夫が高い声を出して笑いながらの述懐だ。
旧本陣奥の間の風通しのよいところに横になって連れて来た女の子に乳房《ちぶさ》をふくませることも、先年東山道御巡幸のおりには馬籠|行在所《あんざいしょ》の御便殿《ごびんでん》にまで当てられた記念の上段の間の方まで母のお民と共に見て回ることも、お粂には久しぶりで味わう生家《さと》の気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たちのことは半蔵もお民も聞きたくていた。弓夫らの話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋《すきやばし
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