》わきの小学校へ通わせて見たが、兄の森夫の方は学問もそう好きでないらしいところから、いっそ商業で身を立てろと勧めて見たところ、当人もその気になり、日本橋本町の紙問屋に奉公する道が開けて来たのも、かえってあの子の将来のためであろうという。弟の和助の方は、と言うと、これは引き続き学校へ通わせるかたわら、弓夫みずから『詩経』の素読《そどく》をも授けて来た。幸い美濃岩村の旧藩士で、鎗屋町の跡に碁会所を開きたいという多芸多才な日向照之進《ひゅうがてるのしん》は弓夫が遠縁のものに当たるから、和助はその日向の家族の手に託して置いて来たともいう。
「和助は学問の好きなやつだで。あれはおれの子だで。」
と半蔵が弓夫らに言ったのもその時だった。
弓夫は一晩しか馬籠に泊まらなかった。家内と乳呑児《ちのみご》とを置いて一足《ひとあし》先に妻籠の方へ帰って行った。そのあとには一層半蔵やお民のそばへ近く来るお粂が残った。お粂は義理ある妹のお槇《まき》にも古疵《ふるきず》の痕《あと》を見られるのを気にしてか、すずしそうな単衣《ひとえ》の下に重ねている半襟《はんえり》をかき合わせることを忘れないような女だ。でも娘時分とは大違いに、からだからしてしまって来た。さばけた快活な声を出して笑うようにもなった。彼女は物に興じる質《たち》で、たまの里帰りの間にもお槇のために髪を直してやったり、お民が家のものを呼び集めて季節がらの真桑瓜《まくわうり》でも切ろうと言えば皆まで母親には切らせずに自分でも庖丁《ほうちょう》を執って見たりして、東京の方で一年ばかりも弟和助の世話をした時のことなぞをそこへ語り出す。あの山家《やまが》育ちの小学生も生まれて初めて東京|魚河岸《うおがし》の鮮魚を味わい、これがオサシミだとお粂に言われた[#「言われた」は底本では「言はれた」となっている]時は目を円《まる》くして、やっぱり馬籠の家の囲炉裏ばたで食い慣れた塩辛いさんまや鰯《いわし》の方が口に合うような顔つきでいたが、その和助がいつのまにか都の空気に慣れ、「君、僕」などという言葉を使うようになったという。遠く修業に出した子供のうわさとなると、半蔵もお民も飽きなかった。もっともっと聞きたかった。よく見ればお粂はそういう調子で母親のそばに笑いころげてばかりいるでもない。自分の女の子を抱いて庭でも見せに奥の廊下を歩いている時の彼女はまるで別人のようであった。彼女は若い日のことを思い出したように、そんなところにいつまでも隠れて、娘時代の記憶のある草木の深い坪庭をながめていたから、思わずもらす低い声がなかったら、半蔵なぞはそこに人があるとも気づかなかったくらいだった。その晩、彼女は両親のそばに寝て話したいと言うから、店座敷の狭いところに三人|枕《まくら》を並べたが、おそくまで母親に話しかける彼女の声は尽きることを知らないかのよう。半蔵が一眠りして、目をさますと、ぼそ/\ぼそ/\語り合う女の声がまだ隣から聞こえていた。
お粂のいう「寝てからでなければ話せない話」を通して、半蔵が自分の娘の身の上を知るようになったのも、そんな明けやすい夏の一夜からであった。もしお粂が旦那の酒の相手でもして唄《うた》の一つも歌うような女であったらとは、彼女自身の小さな胸の中によく思い浮かべることであるとか。旦那は植松のような家に生まれながら、どうしてそんなひそかな戯れ事の秘密を知ったろうと思われるほどの人で、そのお粂の驚きは彼女がささげようとする身を無慙《むざん》にも踏みにじるようなものであり、ただ旦那が情にもろいとかなんとかの言葉で片づけてしまえないものであったという。しかし彼女はそのために旦那|一人《ひとり》を責められなかった。旦那の友だちは皆、当時流行の猟虎《らっこ》の帽子をかぶり、羽《は》ぶりのよい官員や実業家と肩をならべて、権妻《ごんさい》でも蓄《たくわ》えることを男の見栄《みえ》のように競い合う人たちだからであった。東京の方に暮らした間、旦那はよく名高い作者の手に成った政治小説や柳橋新誌《りゅうきょうしんし》などを懐中《ふところ》にして、恋しい風の吹く柳橋《やなぎばし》の方へと足を向けた。しまいにはお粂はそれを旦那の病気とさえ考えるようになった。あだかも夏の夜の灯《ひ》をめがけて飛ぶ虫のように、たのしみを追うことに打ちこむ旦那のたましいの前には、なにものもそれをさえぎる力はなかった。旦那も金につまった時は、お粂の着物を質屋に預けさせてまでそれをやめなかった。彼女はやかましい姑《しゅうとめ》には内証で、旦那があるなじみの芸者に生ませた子の始末をしたこともある。その時になってもまだ彼女は男というものを信じ、その誠実を信じ、やさしい言葉の一つも旦那からかけられれば昨日までのことは忘れて、また永《なが》い遠い夫を心あ
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