られませんよ。」
半蔵は勝重から何よりのものを贈られたというふうに座を離れて、台所の方へその土産を置きに行ったが、やがてまたニヤニヤ笑いながら勝重のいるところへ戻《もど》って来た。
その静の屋に半蔵が二度目の春を迎えるころは、東京の平田|鉄胤《かねたね》老先生ももはやとっくに故人であった。そればかりではない、彼は中津川の友人香蔵の死をも見送った。追い追いと旧知の亡《な》くなって行くさびしさにつけても、彼は久しぶりの勝重をつかまえて、容易に放そうともしない。他に用事を兼ねて日ごろ無沙汰《ぶさた》のわびばかりに来たという勝重が師匠の顔を見るだけに満足し、落合の酒を置いて行くだけにも満足して、やがて気軽な調子で辞し去ろうとした時、半蔵はその人を屋外《そと》まで追いかけた。それほど彼は人なつかしくばかりあった。
半蔵は勝重に言った。
「そう言えば、勝重さん、文久三年に君と二人《ふたり》で御嶽参籠《おんたけさんろう》に出かけた時さ。あれは、ちょうど今時分じゃありませんか。でも、いい陽気になって来ましたね。この谷へも、鶯《うぐいす》が来るようになりましたよ。」
こんな声を聞いて勝重は師匠のそばから離れて行った。そして、ひとりになってから言った。
「どうして、お師匠さまはまだまだ年寄りの仲間じゃない。」
二
静の屋は別に観山楼とも名づけてある。晴れにもよく雨にもよい恵那山《えなさん》に連なり続く山々、古代の旅人が越えて行ったという御坂《みさか》の峠などは東南にそびえて、山の静かさを愛するほどのものは楼にいながらでもそのながめに親しむことができる。緩慢《なだらか》ではあるが、しかし深い谷が楼のすぐ前にひらけていて、半蔵はそこいらを歩き回るには事を欠かなかった。清い水草の目を楽しませるものは行く先にある。日あたりのよい田圃《たんぼ》わきの土手は谷間のいたるところに彼を待っている。その谷底まで下って行けば、土地の人にしか知られていない下坂川《おりさかがわ》のような谿流《けいりゅう》が馬籠の男垂山《おたるやま》方面から音を立てて流れて来ている。さらにすこし遠く行こうとさえ思えば、谷の向こうにある林の中の深さにはいって見ることもでき、あるいは山かげを耕して住む懇意な百姓の一軒家まで歩いてそこに時を送って来ることもできる。もういい加減に、枯れてもいい年ごろだと言われる半蔵が生涯《しょうがい》の奥に見つけたのは、こんな位置にあるところだ。一方は馬籠裏側の細い流れに接して、そこへは鍋《なべ》を洗いに来る村の女もある。鶏の声も遠く近く聞こえて来ている。
もし半蔵があの落合の勝重の言うように余生の送れる人であったら、いかに彼はこの閑居を楽しんだであろう。本家の方のことはもはや彼には言うにも忍びなかった。しかし隠居の身として口出しもならない。世にいう漁《ぎょ》、樵《しょう》、耕《こう》、牧《ぼく》の四隠のうち、彼のはそのいずれでもない。老い衰えて安楽に隠れ栖《す》むつもりのない彼は、寂しく、悲しく、血のわく思いで、ただただ黙然とおのれら一族の運命に対していた。これがついの栖家《すみか》か、と考えて、あたりを見回すたびに、彼は無量の感慨に打たれずにはいられなかった――たとい、お民のような多年連れ添う妻がそばにいて、共に余生を送るとしても。なんと言っても旧《ふる》い馬籠の宿場の跡には彼の少年時代からの記憶が残っている。夕方にでもなると、彼は街道に出て往来《ゆきき》の人にまじりたいと思うような時を迎えることが多かった。
ある日の午後、彼は突然な狂気にとらえられた。まっしぐらに馬籠の裏道を東の村はずれの岩田というところまで走って行って、そこに水車小屋を営む遠縁のものの家へ寄った。硯《すずり》を出させ、墨を磨《す》らせた。紙をひろげて自作の和歌一首を大きく書いて見た。そしてよろこんだ。その彼の姿は、自分ながらも笑止と言うべきであった。そこからまた同じ裏道づたいに、共同の水槽《すいそう》のところに集まる水くみの女どもには、目もくれずに、急いで隠宅へ引き返して来た。
「まあ、きょうはどうなすったか。」
とお民はあきれた。
半蔵に言わせると、彼も不具ではない。不具でない以上、時にはこうした狂気も許さるべきであると。
「これがお前、生きているしるしなのさ。」
半蔵の言い草だ。
梅から山ざくら、山ざくらから紫つつじと、春を急ぐ木曾路《きそじ》の季節もあわただしい。静の屋の周囲にある雑木なぞが遠い谷々の草木と呼吸を合わせるように芽を吹きはじめると、日の色からしてなんとなく違って来るさわやかな明るさが一層半蔵の目には悩ましく映った。彼は二部屋ある二階の六畳の方に古い桐《きり》の机を置いて、青年時代から書きためた自作の『松《まつ》が枝《え》』、それ
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