、にわかに馬籠訪問を思い立った。家を出る時の彼は手にさげられるだけの酒を入れた細長い樽《たる》をもさげていた。かねて大酒のうわさのある師匠のために、陰ながら健康を案じ続けていた彼ではあるが、いざ訪《たず》ねて行こうとして、何か手土産《てみやげ》をと探《さが》す時になると、やっぱり良い酒を持って行って勧めたかった。これは落合の酒だが、馬籠の伏見屋あたりで造る酒と飲みくらべて見てもらいたいとでも言って、それを嗜《たしな》む半蔵のよろこぶ顔が見たいと思いながら彼は出かけた。勝重から見ると、元来本陣といい問屋《といや》といい庄屋《しょうや》といった人たちは祖先以来の習慣によって諸街道交通の要路に当たり、村民の上に立って地方自治の主脳の位置にもあり、もっぱら公共の事業に従って来たために、一家の経済を処理する上には欠点の多かったことは争われない。旧藩士族の人たちのためにはとにもかくにも救済の方法が立てられ、禄券《ろくけん》の恩典というものも定められたが、庄屋本陣問屋は何のうるところもない。明治維新の彼らを遇することは薄かった。今や庄屋の仕事は戸長役場に移り、問屋の仕事は中牛馬会社に変わって、ことに本陣をも兼ねた青山のような家があの往時の武家と公役とのためにあったような大きな屋敷の修繕にすら苦しむようになって来たことは当然の話であった。この際、半蔵の弟子《でし》としては、傾いて行く青山の家運をどうすることもできないが、せめて師匠だけは、そのあわれな境涯《きょうがい》の中にも静かな晩年の日を送ってもらいたいと願うのであった。というのは、飛騨《ひだ》の寂しい旅以来の半蔵の内部《なか》には精神にも肉体にも何かが起こっているに相違ないとは、もっぱら狭い土地での取りざたで、それが勝重の耳にもはいるからであった。
 四月上旬の美濃路ともちがい、馬籠峠の上へはまだ春の来ることもおそいような日の午後に、勝重は霜の溶けた道を踏んで行ったのであるが、半蔵の隠宅を訪ねることは彼にとってそれが初めての時でもない。そこは静《しず》の屋《や》と名づけてある二階建ての小楼で、青山の本家からもすこし離れた馬籠の裏側の位置にある。落合方面から馬籠の町にはいるものは、旧本陣の門前まで出ないうちに街道を右に折れ曲がって行くと、共同の水槽《すいそう》の方から奔《はし》って来る細い流れの近くに、その静の屋を見いだすことができる。ちょうど半蔵も隠宅にある時で心ゆくばかり師匠の読書する声が二階から屋外《そと》まで聞こえて来ているところへ勝重は訪ねて行った。入り口の壁の外には張り物板も立てかけてあるが、お民のすがたは見えなかった。しばらく勝重は上《あが》り框《がまち》のところに腰掛けて、読書の声のやむまで待った。その間に彼は師匠が余生を送ろうとする栖家《すみか》の壁、柱なぞにも目をとめて見る時を持った。階下は一部屋と台所としかないような小楼であるが、木材には事を欠かない木曾の山の中のことで木口もがっしりしている上に、すでにほどのいい古びと落ちつきとができて、すべて簡素に住みなしてある。入り口の壁の内側には半蓑《はんみの》のかかっているのも山家らしいようなところだ。やがて半蔵は驚いたように二階から降りて来て勝重を下座敷へ迎え入れた。半蔵ももはや以前のような総髪《そうがみ》を捨てて髪も短かめに、さっぱりと刈っている人である。いつでも勝重が訪ねて来るたびに、同じ顔色と同じ表情とでいたためしのないのも半蔵である。ひどく青ざめた顔をしていることもあれば、また、逆上《のぼ》せたように紅《あか》い顔をしていることもある。その骨格のたくましいところは先代吉左衛門に似て、膝《ひざ》の上に置いた手なぞの大きいことは、対坐《たいざ》するたびに勝重の心を打つ。その日、半蔵はあいにく妻が本家の方へ手伝いに行っている留守の時であると言って見せ、手ずから茶などをいれて旧《ふる》い弟子をもてなそうとした。そこへ勝重が落合からさげて来たものを取り出すと、半蔵は目を円《まる》くして、
「ホウ、勝重さんは酒を下さるか。」
 まるで子供のようなよろこび方だ。そう言う半蔵の周囲には、継母はじめ、宗太夫妻から親戚《しんせき》一同まで、隠居は隠居らしく飲みたい酒もつつしめと言うものばかり。わざわざそれをさげて来て、日ごろの愁《うれ》いを忘れよとでも言うような人は、昔を忘れない弟子のほかになかった。
「勝重さん、君の前ですが、この節|吾家《うち》のものは皆で寄ってたかって、わたしに年を取らせるくふうばかりしていますよ。」
「そりゃ、お家の方がお師匠さまのためを思うからでしょうに。」
「しかし、勝重さん、こうしてわたしのように、日がな一日山にむかって黙っていますとね、半生の間のことがだんだん姿を見せて来ましてね、そう静かにばかりしてはい
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