えてある。道を明らかにすることがすなわち師を用うることだとも教えてある。日に日に新しい道をさらに明らかにせねばならない。そして国学諸先輩の発見した新しい古《いにしえ》をさらに発見して行かねばならない。古を新しくすることは、半蔵らにとっては歴史を新しくすることであった。
 そこまで考えて行くうちに、鉄瓶《てつびん》の湯もちんちん音がして来た。その中に徳利《とくり》を差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。冷たくなった焼き味噌も炙《あぶ》り直せば、それでも夜の酒のさかなになった。やがて半蔵は好きなものにありついて、だれに遠慮もなく手酌《てじゃく》で盃《はい》を重ねながら、また平田門人の生くべき道を思いつづけた。仮に、もしあの本居宣長のような人がこの明治の御代《みよ》を歩まれるとしたら、かつてシナインドの思想をその砥石《といし》とせられたように、今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものを磨《みが》きあげられるであろう。深くも、柔らかくも、新しくもはいって行かれるあの宣長翁が学者としての素質としたら、洋学にはいって行くこともさほどの困難を感ぜられないであろう。おおよそ今の洋学者が説くところは、理に合うということである。あの宣長翁であったら、おそらく理を知り、理を忘れるところまで行って、言挙《ことあ》げということもさらにない自然《おのずから》ながらの古の道を一層明らかにされるであろう。
 思いつづけて行くと、半蔵は大きな巌《いわお》のような堅い扉《とびら》に突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考え究《きわ》めるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。
 彼が子弟の教育に余生を送ろうとしているのも、一つはこの生涯の無才無能を感づくからであった。彼は自分の生涯に成し就《と》げ得ないものをあげて、あとから歩いて来るものにその熱いさびしい思いを寄せたいと願った。それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤没後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮《しょせん》、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのもつらく、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。
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     第十四章

       一

 馬籠《まごめ》にある青山のような旧家の屋台骨が揺るぎかけて来たことは、いつのまにか美濃《みの》の落合《おちあい》の方まで知れて行った。その古さから言えば永禄《えいろく》、天正《てんしょう》年代からの長い伝統と正しい系図とが残っていて、馬籠旧本陣と言えば美濃路にまで聞こえた家に、もはやささえきれないほどの強い嵐《あらし》の襲って来たことが、同じ街道筋につながる峠の下へ知られずにいるはずもなかった。馬籠を木曾路の西のはずれとするなら、落合は美濃路の東の入り口に当たる。落合から馬籠までは、朝荷物をつけて国境《くにざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》を越して行く馬が茶漬《ちゃづ》けまでには戻《もど》って来るほどの距離にしかない。
 落合に住む稲葉屋《いなばや》の勝重《かつしげ》はすでに明治十七年の三月あたりからその事のあるのを知り、あの半蔵が跡目相続の宗太夫婦とも別居して、一小隠宅の方に移り住むようになった事情をもうすうす知っていた。勝重はかつて半蔵の内弟子《うちでし》として馬籠旧本陣に三年の月日を送ったことを忘れない。明治十九年の春が来るころには、彼も四十歳に近い分別盛りの年ごろの人である。いよいよあの古い歴史のある青山の家も傾いて来て、没落の運命は避けがたいかもしれないということは、彼にとって他事《ひとごと》とも思われなかった。実は彼は他の落合在住者とも語り合い、半蔵の世話になったものだけが集まって、なんらかの方法で師匠を慰めたいと、おりおりその相談もしていた時であった。これまで半蔵の教えを受けた人たちの中で一番末頼もしく思われていたものも勝重である。今は彼も父祖の家業を継いで醤油《しょうゆ》醸造に従事する美濃衆の一人であり、先代儀十郎まで落合の宿役人を勤めた関係からも何かにつけて村方の相談に引き出される多忙な身ではあるが、久しく見ない師匠のこともしきりに心にかかって、他に用事を兼ねながら
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