をおしぬぐっていたが、いよいよ兄弟《きょうだい》の子供が東京への初旅に踏み出すという朝は涙も見せなかった。
当時は旅もまだ容易でなかった。木曾の山の中から東京へ出るには、どうしても峠四つは越さねばならない。宗太も大奮発で、二人の弟の遊学には自ら進んで東京まで連れて行くと言い出したばかりでなく、隣家伏見屋二代目のすぐ下の弟に当たる二郎が目の治療のために同行したいというのをも一緒に引き受けて行った。
子供ながらも二人の兄弟の動きは、そのあとにいろいろなものを残した。兄の森夫は、十三歳にもなってそんな頭をして行ったら東京へ出て笑われると言われ、宗太に手鋏《てばさみ》でジョキジョキ髪を短くしてもらい、そのあとがすこしぐらい虎斑《とらふ》になっても頓着《とんちゃく》なしに出かけるという子供だし、弟の和助も兄たちについて東京の方へ勉強に行かれることを何よりのよろこびにして、お河童頭《かっぱあたま》を振りながら勇んで踏み出すという子供だ。この弟の方はことに幼くて、街道を通る旅の商人からお民が買ってあてがったおもちゃの鞄《かばん》に金米糖《こんぺいとう》を入れ、それをさげるのを楽しみにして行ったほどの年ごろであった。小さな紐《ひも》のついた足袋《たび》。小さな草鞋《わらじ》。その幼いものの旅姿がまだ半蔵夫婦の目にある。下隣のお雪婆さんの家には、兄弟の子供が預けて置いて行ったショクノ(地方によりネッキともいう)が残っているというような話も聞こえて来る。
初代伊之助を見送ったあとのお富ももはや若夫婦を相手の後家であるが、この人は東京行きの二郎を宗太に託してやった関係からも、風呂《ふろ》なぞもらいながら隣家から通《かよ》って来て、よく青山の家に顔を見せる。お富が言うことには、
「そりゃ、まあ、かわいい子には旅をさせろということもありますがね、よくそれでもお民さんがあんなちいさなものを手離す気におなりなすった。なんですか、わたしはオヤゲナイ(いたいたしい)ような気がする。」
囲炉裏ばたにはこんな話が尽きない。やれ竹馬だなんだかだと言って森夫や和助が家の周囲《まわり》を遊び戯れたのも、きのうのことになった。
「でも、妙なものですね。まだわたしは子供がそこいらに遊んでるような気がしますよ。塩の握飯《むすび》をくれとでも言って、今にも屋外《そと》から帰って来るような気がしますよ――わたしはあの塩の握飯の熱いやつを朴葉《ほおば》に包んで、よく子供にくれましたからね。」
寄ると触るとお民はそのうわさだ。
「まだお前はそんなことを言ってるのかい。」
口にこそ半蔵はそう答えたが、その実、この妻を笑えなかった。手離してやった子供はどこにでもいた。夕方にでもなると街道から遠く望まれる恵那山の裾野《すその》の方によく火が燃えて、それが狐火《きつねび》だと村のものは言ったものだが、そんな街道に蝙蝠《こうもり》なぞの飛び回る空の下にも子供がいた。家の裏の木小屋の前から稲荷《いなり》の祠《ほこら》のある方へ通うところには古い池があって、石垣《いしがき》の間には雪の下が毎年のように可憐《かれん》な花をつけるところだが、そんなおとなでもちょっと背の立たないほど深いよどんだ水をたたえた池のほとりにも子供がいた。そればかりではない、子供は彼の部屋《へや》の座蒲団《ざぶとん》の上にもいたし、彼の懐《ふところ》の中にもいた。彼の袂《たもと》の中にもいた。
「この野郎、この野郎。」
と彼が言いかけて、いくら教えても本のきらいな森夫の耳のあたりへ、握りこぶしの一つもくらわせようとすると、いつのまにか本をかかえて逃げ出すような子供は彼の目の前にいた。
「オイ、蝋燭《ろうそく》、蝋燭。」
と彼が注意でもしてやらなければ、たまに夜おそくまで紙をひろげ、燭台《しょくだい》を和助に持たせ、その灯《ほ》かげに和歌の一つも大きく書いて見ようとすると、蝋燭もろともそこへころげかかるほど眠がっているような子供は彼のすぐそばにもいた。
山のものとも海のものともまだわからないような兄弟の子供の前途にも半蔵は多くの望みをかけた。彼は読み書きの好きな和助のために座右の銘ともなるべき格言を選び、心をこめた数|葉《よう》の短冊《たんざく》を書き、それを紙に包んで初旅の餞《はなむけ》ともした。
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やよ和助読み書き数へいそしみて心静かに物学びせよ
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飛騨にいるころから半蔵はすでにこんな歌を作って子を思うこころを寄せていた。
宗太は弟たちの旅の話を持って無事に東京から帰って来た。一行四人のものが、みさやま峠にかかった時は、さすが山歩きに慣れた子供の足も進みかねたと見え、峠で日が暮れかかったこともあったという。余儀なく彼は和助の帯に手ぬぐいを結びつけ、それで
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