すべて靴《くつ》でも歩まれるように畳の上には敷き物を敷きつめ、玉座、および見晴らしのある西向きの廊下、玄関などは宮内省よりお持ち越しの調度で鋪設《ほせつ》することにしてあった。どこを内廷課の人たちの部屋に、どこを供進所に、またどこを内膳課の調理場にと思う[#「思う」は底本では「思ふ」]と、ただただ半蔵は恐縮するばかり。そのうちにお民も改まった顔つきで来て、彼の袖《そで》を引きながら一緒に裏二階の方にこもるべき時の迫ったことを告げた。
 継母おまんをはじめ、よめのお槇《まき》、下男佐吉、下女お徳らはいずれも着物を改めて、すでに裏の土蔵の前あたりに集まっていた。そこは井戸の方へ通う細道をへだてて、斜めに裏二階と向かい合った位置にある。土蔵の前に茂る柿《かき》の若葉は今をさかりの生気を呼吸している。その時は、馬籠の村でも各戸供奉の客人を引き受ける茶のしたくにいそがしいころであったが、そういう中でも麗《うるわ》しい龍顔を拝しに東の村はずれをさして出かけるものは多く、山口村からも飯田《いいだ》方面からも入り込んで来るものは街道の両側に群れ集まるころであった。しかし、青山の家のものとしては、とどこおりなく御昼食も済んだと聞くまでは、いつ何時《なんどき》どういう御用がないともかぎらなかったから、いずれも皆その裏二階に近い位置を離れられなかった。その辺から旧本陣の二つの裏木戸の方へかけては巡査も来て立って、静粛に屋後の警備についていた。
 過ぐる年、東京|神田橋《かんだばし》外での献扇《けんせん》事件は思いがけないところで半蔵の身に響いて来た。千載一遇とも言うべきこの機会に、村のものはまたまた彼が強い衝動にでも駆られることを恐れるからであった。かつては憂国の過慮から献扇事件までひき起こし、一時は村でもとかくの評判が立った彼のことであるから、どんな粗忽《そこつ》な挙動を繰り返さないものでもあるまいと、ただただわけもなしに気づかうものばかり。先代伊之助が亡《な》くなったあとの馬籠では、その点にかけて彼の真意をくむものもない。村で読み書きのできるものはほとんど彼の弟子《でし》でないものはなく、これまで無知な子供を教え導こうとした彼の熱心を認めないものもなかったから、その人を軽く扱うではないが、しかしこの際の彼は静かに家族と共にいて、陰ながら奉迎の意を表してほしいというのが村のものの希望らしい。古い歴史のあるこの地方のことを供奉の人々にも説き明かすような役割は何一つ彼には振り当てられなかった。その相談もなければ、沙汰《さた》もない。彼は土蔵の前の石垣《いしがき》のそばに柿の花の落ちている方へ行って、ひとりですすり泣きの声をのむこともあった。
 恵那山のふもとのことで、もはやお着きを知らせるようなめずらしいラッパの音が遠くから谷の空気に響けて来た。当日一千人分の名物|栗強飯《くりこわめし》をお買い上げになり、随輦《ずいれん》の臣下のものに賜わるしたくのできていたという峠でのお野立ての時もすでに済まされたらしい。半蔵はあの路傍の杉《すぎ》の木立ちの多い街道を進んで来る御先導を想像し、山坂に響く近衛《このえ》騎兵の馬蹄《ばてい》の音を想像し、美しい天皇旗を想像して、長途の旅の御無事を念じながらしばらくそこに立ち尽くした。

       六

 明治十四年の来るころには半蔵も五十一歳の声を聞いた。その年の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家の内もさみしくなった。
 二人《ふたり》の子供は東京に遊学させる、木曾谷でも最も古い家族の一つに数えらるるところから「本陣の子供」と言って自然と村の人の敬うにつけてもとかく人目にあまることが多い、二人とも親の膝下《ひざもと》に置いては将来ろくなことがない、今のうちに先代吉左衛門が残した田畑や本陣林のうちを割《さ》いて二人の教育費にあてる、幸い東京の方には今子供たちの姉の家がある、お粂《くめ》はその夫植松|弓夫《ゆみお》と共に木曾福島を出て東京京橋区|鎗屋町《やりやちょう》というところに家を持っているからその方に二人の幼いものを託する、あのお粂ならきっと弟たちのめんどうを見てくれる、この半蔵の考えが宗太をよろこばせた。子供本位のお民もこれには異存がなく、彼女から離れて行く森夫や和助のために東京の方へ持たせてやる羽織を織り、帯を織った。継母のおまんはおまんで、孫たちが東京へ立つ前日の朝は裏二階から母屋《もや》の囲炉裏ばたへ通って来て、自分の膳《ぜん》の前に二人《ふたり》を並べて置きながら、子供心にわかってもわからなくても青山の家の昔を懇々と語り聞かせた。ひょっとするとこれが孫たちの見納めにでもなるかのように、七十三歳の春を迎えたおまんはしきりに襦袢《じゅばん》の袖《そで》で老いの瞼《まぶた》
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