あらばここの御憩《みいこ》ひ、恒《つね》よりも長くいまさな。
春ならば花さかましを、秋ならば紅葉《もみじ》してむを、花紅葉今は見がてに、常葉木《とこわぎ》も冬木もなべて、緑なる時にしあれば、遠近《おちこち》の畳《たた》なづく山、茂り合ふ八十樹《やそき》の嫩葉《わかば》、あはれとも看《み》したまはな。
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かしこくもわが大君、山深き岐岨《きそ》にはあれど、ふたたびもいでましあらな。
あなたふと、わが大君、しまらくも長閑《のど》にいまして、見霽《みは》るかしませ。
反歌
大君の御世とこしへによろづよも南の山と立ち重ねませ
夏山の若葉立ちくぐ霍公鳥《ほととぎす》なれもなのらな君が御幸《みゆき》に
山のまの家居る民の族《やから》まで御幸をろがむことのかしこさ
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御順路の日割によると、六月二十六日鳥居峠お野立《のだ》て、藪原《やぶはら》および宮《みや》の越《こし》お小休み、木曾福島御一泊。二十七日|桟《かけはし》お野立て、寝覚《ねざめ》お小休み、三留野《みどの》御一泊。二十八日妻籠お小休み、峠お野立て、それから馬籠御昼食とある。帝が群臣を従えてこの辺鄙《へんぴ》な山里をも歴訪せらるるすずしい光景は、街道を通して手に取るように伝わって来た。輦路《れんろ》も嶮難《けんなん》なるところから木曾路は多く御板輿《おんいたごし》で、近衛《このえ》騎兵に前後を護《まも》られ、供奉《ぐぶ》の同勢の中には伏見|二品宮《にほんのみや》、徳大寺宮内卿《とくだいじくないきょう》、三条|太政《だじょう》大臣、寺島山田らの参議、三浦陸軍中将、その他伊東岩佐らの侍医、池原文学御用掛りなぞの人々があると言わるる。福島の行在所《あんざいしょ》において木曾の産馬を御覧になったことなぞ聞き伝えて、その話を半蔵のところへ持って来るのは伏見屋の三郎と梅屋の益穂《ますほ》とであった。この二人の少年は帰国後の半蔵について漢籍を学びはじめ「お師匠さま、お師匠さま」と言っては慕って来て、物心づく年ごろにも達しているので、何か奥筋の方から聞きつけたうわさでもあると、早速《さっそく》半蔵を見にやって来る。亡《な》き伏見屋の金兵衛にでも言わせたら、それこそ前代未聞の今度の御巡幸には、以前に領主や奉行が通行の際にも人民の土下座した旧《ふる》い慣例は廃せられ、すべて直礼の容《かたち》に改めさせたというようなことまでが二少年の心を動かすに充分であった。
いよいよ馬籠御通行という日が来ると、四、五百人からの人足が朝から詰めて御通輦《ごつうれん》を待ち受けた。半蔵は裏の井戸ばたで水垢離《みずごり》を執り、からだを浄《きよ》め終わって、神前にその日のことを告げた後、家の周囲を見て回ると、高さ一丈ばかりの木札に行在所と記《しる》したのが門前に建ててあり、青竹の垣《かき》も清げにめぐらしてある。
家内一同朝の食事を済ますころには、もう御用掛りの人たちが家へ入り込んで来た。お民は森夫や和助を呼んで羽織袴《はおりはかま》に着かえさせ、内膳《ないぜん》課の料理方へ渡す前にわざわざ西から取り寄せたという鮮魚の皿《さら》に載せたのを子供らにも取り出して見せた。季節がら食膳に上るものと言えば、石斑魚《うぐい》か、たなびらか、それに木ささげ、竹の子、菊豆腐の類《たぐい》であるが、山家にいてはめずらしくもない河魚や新鮮な野菜よりもやはり遠くから来る海のものを差し上げたら、あるいは都の料理方にもよろこばれようかと彼女は考えたのである。
「御覧、これはサヨリというおさかなだよ。禁庭さまに差し上げるんだよ。」
幼い和助なぞは半分夢のように母の言葉を聞いて、その心は国旗や提灯《ちょうちん》を掲げつらねた旧い宿場のにぎやかさや、神坂《みさか》村小学校生徒一同でお出迎えする村はずれの方へ行っていた。
やがて青山の家のものは母屋《もや》の全部を御用掛りに明け渡すべき時が来た。往時、諸大名が通行のおりには、本陣ではそれらの人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与え、供の衆何十人前の膳部の用意をも忘れてはならないばかりでなく、家のものが直接に客人をもてなすことに多くの心づかいをしたもので、それでも供の衆には苦情は多く、弊害百出のありさまであったが、今度は人民に迷惑をかけまいとの御趣意から、ただ部屋部屋をお貸し申すだけで事は足りた。御膳水、御膳米の用意にも、それぞれ御用取扱人があった。半蔵は羽織袴で、準備のできた古い屋根の下をあちこちと見て回った。上段の間は、と見ると、そこは御便殿《ごびんでん》に当てるところで、純白な紙で四方を張り改め、床の間には相州三浦の山上家から贈られた光琳《こうりん》筆の記念の軸がかかった。御次ぎの奥の間は侍従室、仲の間は大臣参議の室というふうで、
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