歴史もあり、西にひらけた眺望《ちょうぼう》のある位置としても木曾にはめずらしく、座敷の外に見える遠近の山々も、ごちそうの一つということになった。半蔵としては、日ごろ慕い奉る帝が木曾路の御巡幸と聞くさえあるに、彼ら親子のものの住居《すまい》にお迎えすることができようなぞとは、まったく夢のようであった。
「お民、妻籠《つまご》の方でも皆目を回しているだろうね。寿平次さんの家じゃどうするか。」
「それがですよ。妻籠のお小休みは実蔵さん(得右衛門養子)の家ときまったそうですよ。」
「やっぱり、そうか。寿平次さんも御遠慮申し上げたと見える。」
半蔵夫婦の言葉だ。
そのうちに、御先発としての山岡鉄舟《やまおかてっしゅう》の一行も到着する。道路の修繕もはじまって、この地方では最初の電信線路建設の工事も施された。御膳水《ごぜんすい》は伏見屋二代目伊之助方の井戸を用うることに決定したなどと聞くにつけても、半蔵はあの亡《な》き旧友を思い出し、もし自分が駅長なり里長なりとして在職していて先代伊之助もまだ達者《たっしゃ》でいてくれたら、共に手を携えて率先奔走するであろうにと残念がった。亡き吉左衛門や金兵衛らと共にあの和宮様《かずのみやさま》御降嫁のおりの御通行を経験した彼は、あれほど街道の混雑を見ようとはもとより思わなかったが、それでも多数にお入り込みの場合を予想し、こんなことで人足や馬が足りようかと案じつづけた。
六月二十四日はすでに上諏訪《かみすわ》御発輿《ごはつよ》の電報の来るころである。その時になると、木曾谷山地の請願事件も、何もかも、この街道の空気の中に埋《うず》め去られたようになった。帝行幸のおうわさがあるのみだった。
この御巡幸の諸準備には、本県より出張した書記官や御用掛りの見分がある上に、御厩《おうまや》課、内匠《たくみ》課の人々も追い追い到着して、御道筋警衛の任に当たる警部や巡査の往来も日に日に多くなった。馬籠でも戸長をはじめとして、それぞれの御用取扱人というものを定めた。だれとだれは調度掛り、だれは御宿掛り、だれは人馬|継立《つぎた》て掛り、だれは御厩掛り、だれは土木掛りというふうに。半蔵は宗太を通して、その役割をしるした帳面を見せてもらうと、旧宿役人の名はほとんどその中に出ている。戊辰《ぼしん》の際に宿役人に進んだ亀屋《かめや》栄吉をはじめ、旧問屋九郎兵衛、旧年寄役|桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》、同役|蓬莱屋《ほうらいや》新助、同じく梅屋五助、旧|組頭《くみがしら》笹屋《ささや》庄助、旧五人組の重立った人々、それに年若ではあるが旧《ふる》い家柄として伏見屋の二代目伊之助からその補助役清助の名まである。しかし、半蔵には何の沙汰《さた》もない。彼も今は隠居の身で、何かにつけてそう口出しもならなかった。ただ宗太が旧本陣の相続者として今度御奉公申し上げるのは、彼にはせめてものなぐさめであった。
御巡幸に先立って、臣民はだれでも詩歌の類を献上することは差し許された。その詠進者は県下だけでもかなりの多数で、中には八十余歳の老人もあり、十一歳ぐらいの少年少女もあると聞こえた。半蔵もまたその中に加わって、心からなる奉祝のまことをわずかに左の一編の長歌に寄せた。
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八隅《やすみ》ししわが大君、かむながらおもほし召して、大八洲国《おおやしまくに》の八十国《やそくに》、よりによりに観《み》て巡《めぐ》らし、いちじろき神の社《やしろ》に、幣《ぬさ》まつりをろがみまし、御世御世のみおやの御陵《みはか》、きよまはりをろがみまして、西の海東の山路、かなたこなた巡りましつつ、明《あきら》けく治《おさま》る御世の、今年はも十あまり三とせ、瑞枝《みずえ》さす若葉の夏に、ももしきの大宮人の、人さはに御供《みとも》つかへて、東《ひんがし》の京《みやこ》をたたし、なまよみの甲斐《かい》の国、山梨《やまなし》の県《あがた》を過ぎて、信濃路《しなのじ》に巡りいでまし、諏訪《すわ》のうみを見渡したまひ、松本の深志《ふかし》の里に、大御輿《おおみこし》めぐらしたまひ、真木《まき》立つ木曾のみ山路、岩が根のこごしき道を、かしこくも越えいでますは、古《いにしえ》にたぐひもあらじ。
谷川の川辺の巌《いわお》、かむさぶる木々の叢立《むらだち》、めづらしと見したまはむ、奇《くす》しともめでたまはむ。
我里は木曾の谷の外《と》、名に負ふ神坂《みさか》の村の、嶮《さか》しき里にはあれど、見霽《みはら》しの宜《よろ》しき里、美濃の山|近江《おうみ》の山、はろばろに見えくる里、恵那《えな》の山近く聳《そび》えて、胆吹山《いぶきやま》髣髴《ほのか》にも見ゆ。
ももしきの美濃に往《い》かさば、山をおり国|低《ひ》きかれば、かくばかり遠くは見えじ。しか
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