われて来た手力男《たぢからお》の命《みこと》にたとえたいような人もあった。その人の徳望と威力とは天下衆人に卓絶するものとも言われた。けれども、磐屋の前の暗さに変わりはない。力だけでは磐戸も開かれなかったのだ。
 こんな想像は、飛騨の旅の思い出と共に帰って来る半蔵の夢でしかないが、それほど彼の心はまだ暗かった。幾多の欠陥の社会に伏在すればこそ、天賦人権の新説も頭を持ち上げ、ヨーロッパ人の中に生まれた自由の理も喧伝《けんでん》せられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉《ふくざわゆきち》、板垣退助《いたがきたいすけ》、植木|枝盛《えもり》、馬場|辰猪《たつい》、中江|篤介《とくすけ》らの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き、あるいは民権の思想を鼓吹《こすい》し、あるいは国会開設の必要を唱うるに至った。真知なしには権利の説の是非も定めがたく、海の東西にある諸理想の区別をも見きわめがたい。ただただわけもなしに付和雷同する人たちの声は啓蒙《けいもう》の時にはまぬがれがたいことかもしれないが、それが郷里の山林事件にまで響いて来るので、半蔵なぞはハラハラした。物を教える人がめっきり多くなって、しかも学ぶに難い世の中になって来た。良心あるものはその声にきいて道をたどるのほかはなかったのである。
 この空気の中だ。今度木曾山を争おうとする人たちに言わせると、
「平田門人は復古を約束しながら、そんな古《いにしえ》はどこにも帰って来ないではないか。」
 というにあるらしい。
 これには半蔵は返す言葉もない。復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあると言ったあの暮田正香《くれたまさか》の言葉なぞを思い出して彼は暗然とした。ともあれ、県庁あての請願書はすでに差し出されたが、その結果もおぼつかなかった。たとい木曾谷の山林事件そのものがどう推し移ろうとも、旧領主時代からの長い紛争の種がこのままにして置けるはずもないから、自分らの代にできなければ子の代に伝えても、なんらかの良い解決を見いだしたいと彼は切に願った。


 その年は木曾地方の人民にとって記念すべき年であった。帝には東山道の御巡幸を仰せ出され、木曾路の御通過は来たる六月下旬の若葉のころと定められたからであった。
 この御巡幸は、帝としては地方を巡《めぐ》らせたもう最初の時でもなかったが、これまで信濃《しなの》の国の山々も親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら、西南戦争当時なぞの御心労は言うまでもなく、時の難さにさまざまのことを思《おぼ》し召されるであろうと、まずそれが半蔵の胸に来る。あの山城《やましろ》の皇居を海に近い武蔵《むさし》の東京に遷《うつ》し、新しい都を建てられた当初の御志《おんこころざし》に変わりなく、従来深い玉簾《ぎょくれん》の内にのみこもらせられた旧習をも打ち破られ、帝自らかく国々に御幸《みゆき》したまい、簡易軽便を本として万民を撫育《ぶいく》せられることは、彼にはありがたかった。封建君主のごときものと聞くヨーロッパの帝王が行なうところとは違って、この国の君道の床《ゆか》しさも彼には想《おも》い当たった。今度の御巡幸について地方官に諭《さと》された趣意も、親しく地方の民情を知《しろ》し召されたいのであって、百般の事務が形容虚飾にわたっては聖旨に戻《もと》るから、厚く人民の迷惑にならないよう取り計らうことが肝要であると仰せられ、道路|橋梁《きょうりょう》等のやむを得ない部分はあるいは補修を加うることがあろうとも、もとより官費に属すべきことで決して人民に難儀をかけまいぞと仰せられ、大臣以下|供奉《ぐぶ》の官員が旅宿はことさらに補修を加うるに及ばず、需要の物品もなるべく有り合わせを用いよと仰せ出されたほどであった。
 五月の来るころには、長野県の御用掛りが道路見分に奥筋から出張して来るようになった。馬籠の戸長役場のものはその人を村境まで案内し、絵図の仕立て方なぞを用意することになった。いよいよ御巡幸の御道筋も定まって見ると、馬籠駅御昼食とのことである。西|筑摩《ちくま》の郡長、郡書記も出張して来て、行在所《あんざいしょ》となるべき家は馬籠では旧本陣青山方と指定された。これには半蔵はひどく恐縮し、御駐蹕《ごちゅうひつ》を願いたいのは山々であるが、こんな山家にお迎えするのは恐れ多いとして、当主宗太を通して一応は御辞退する旨《むね》申し上げた。それには脇《わき》本陣|桝田屋《ますだや》方こそ、二代目|惣右衛門《そうえもん》のような名古屋地方にまで知られた町人の残した家のあとであるから、今の住居《すまい》は先年の馬籠の大火に焼けかわったものであるにしても、まだしも屋造りに見どころがあるとも申し上げたが、やはり青山の家の方が古い
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