歩けない弟を引きあげたとか。追分《おいわけ》まで行くと、そこにはもう東京行きの乗合馬車があった。彼も初めてその馬車に乗って見た。同乗の客の中にはやはり東京行きの四十格好の婦人もあったが、弟たちを引率した彼に同情して、和助を引き取り、菓子なぞを与えたりしたが、昼夜の旅に疲れた子供はその見知らぬ婦人の膝《ひざ》の上に眠ることもあった。馬車に揺られながら鶏の鳴き声を聞いて行って松井田まで出たころに消防夫|梯子《はしご》乗りの試演にあった時は子供の夢を驚かした。上州《じょうしゅう》を過ぎ、烏川《からすがわ》をも渡った。四月の日の光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京|万世橋《まんせいばし》の広小路《ひろこうじ》まで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬を停《と》めたが、それがあの大都会の幼いものの目に映る最初の時であった。この道中に、彼は郷里から追分まで子供の足に歩かせ、それからはずっと木曾街道を通しの馬車であったが、それでも東京へはいるまでに七日かかった。植松夫婦は、名古屋生まれの鼻の隆《たか》いお婆さんや都育ちの男の子と共に、京橋|鎗屋町《やりやちょう》の住居《すまい》の方で宗太らを待ち受けていてくれたという。
おまんをはじめ、半蔵夫婦、よめのお槇《まき》らは宗太のまわりを取りまいて、帰り路《みち》にもまた追分までは乗合馬車で来たとめずらしそうに言う顔をながめながら、この子供らの旅の話を聞いた。下隣に住むお雪婆さんまでそれを聞きにやって来た。下男の佐吉と下女のお徳とが二人《ふたり》ともそれを聞きのがすはずもない。お徳は和助のちいさい時分からあの子供を抱いたり背中にのせて子守唄《こもりうた》をきかせたりした長いなじみで、勝手の水仕事をするあかぎれの切れた手を出しては家のものの飯を盛ると、そればかりはあの子供にいやがられた仲だ。毎晩の囲炉裏ばたを夜業《よなべ》の仕事場とする佐吉はまた、百姓らしい大きな手に唾《つば》をつけてゴシゴシと藁《わら》を綯《な》いながら、狸《たぬき》の人を化かした話、畠《はたけ》に出る狢《むじな》の話、おそろしい山犬の話、その他無邪気でおもしろい山の中のお伽噺《とぎばなし》から、畠の中に赤い舌をぶらさげているものは何なぞの謎々《なぞなぞ》を語り聞かせることを楽しみにした子供の友だちだ。
「そう言えば、今度わたしは東京へ行って見て、姉さん(お粂《くめ》)の肥《ふと》ったには驚きましたよ。あの姉さんも、いい細君になりましたぜ。」
宗太が思い出したように、そんな話を家のものにして聞かせると、
「ねえ、お母《っか》さん、色の白い人が肥ったのも、わるかありませんね。」
飯田《いいだ》育ちのお槇《まき》もお民のそばにいて言葉を添える。
その晩、半蔵は子供らが上京の模様にやや心を安んじて、お民と共に例の店座敷でおそくまで話した。過ぐる一年ばかりは和助もその部屋《へや》には寝ないで、年老いた祖母と共に提灯《ちょうちん》つけて裏二階の方へ泊まりに行ったことを彼は思い出し、とにもかくにもその末の子までが都会へ遊学する時を迎えたことを思い出し、先代吉左衛門も彼の年になってはよく枕《まくら》もとへ古風な手さげのついた煙草盆《たばこぼん》を引きよせたことなぞを思い出して、お民と二人の寝物語にまで東京の方のうわさで持ち切った。
「お民、お粂が結婚してから、もう何年になろう。植松のお婆さんでおれは思い出した。あの人の連れ合い(植松|菖助《しょうすけ》、木曾福島旧関所番)は、お前、維新間ぎわのごたごたの中でさ、他《よそ》の家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩に斬《き》られた武士さ。世の中も暗かったね。さすがにあのお婆さんは尾州藩でも学問の指南役をする宮谷家から後妻に来たくらいの人だから、自分の旦那《だんな》の首を夜中に拾いに行って、木曾川の水でそれを洗って、風呂敷包《ふろしきづつ》みにして持って帰ったという話がある。植松のお婆さんはそういう人だ。琴もひけば、歌の話もする。あの人を姑《しゅうとめ》に持つんだから、お粂もなかなか気骨《きぼね》が折れようぜ。」
半蔵夫婦のうわさが総領娘のことに落ちて行くころは、やがて夜も深かった。
「ホ、隣の人は返事しなくなった。きょうはお民もくたぶれたと見える。」
と半蔵はひとり言って見て、枕もとの角行燈《かくあんどん》のかげにちょっと妻の寝顔をのぞいた。四十四歳まで彼と生涯をともにして来たこの気さくで働くことの好きな人は、夜の眠りまでなるがままに任せている。いつのまにか安らかな高いびきも聞こえて来る。その声が耳について、よけいに彼は目がさえた。
「酒。」
そんなことを夜中に彼が言い出したところで、答える人もない。眠りがたいあまりに、彼は寝床からはい出して、手燭《てし
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