の坂になった往還を夢のように踏んだ。
伏見屋へはその日の通知を受けた人たちが、美濃の落合からも中津川からも集まりつつあった。板敷きになった酒店の方から酒の香気《かおり》の通って来る広い囲炉裏ばたのところで、しばらく半蔵は遺族の人たちと共に時を送った。喪《も》にいるお富は半蔵の顔を見るにつけても亡き夫のことを思い出すというふうで、襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》なぞでしきりに涙をふいていたが、どうして酒も強いと聞くこの人が包み切れないほどの残りの色香を喪服に包んでいる風情《ふぜい》もなかなかにあわれであった。その時、半蔵は二代目伊之助のところへ嫁《とつ》いで来ているお須賀《すが》という若いおよめさんにもあった。伊之助は四人の子をのこしたが、それらの忘れ形見がいずれも父親似である中にも、ことに二代目が色白で面長《おもなが》な俤《おもかげ》をよく伝えていて、起居動作にまであの寛厚な長者の風のあった人をしのばせる。故人が生前に、自分の子供を枕《まくら》もとに呼び集め、次郎は目を煩《わずら》っているからいたし方もないが、三郎とお末とは半蔵を師と頼み、何かと教えを受けて勉強せよ、これからの時世は学問なしにはかなわないと、くれぐれも言いのこしたという話も出た。臨終の日も近かったおりに、あの世へ旅立って帰って来たもののあったためしのないことを思えば、自分とてもこの命が惜しまれると言ったという話も出た。
「あれで、先の旦那《だんな》も、『半蔵さんが帰ればいい、半蔵さんが帰ればいい』と言わっせいて、どのくらいお前さまにあいたがっていたか知れすかなし。」
手伝いに来ている近所の婆さんまでが、それを半蔵に言って見せた。
そのうちに村の旦那衆の顔もそろい、その日の祭りを司《つかさど》る村社|諏訪《すわ》分社の禰宜《ねぎ》松下千里も荒町からやって来た。妻籠《つまご》の寿平次、実蔵(得右衛門の養子)、落合の勝重《かつしげ》、山口の杏庵《きょうあん》老、いずれも半蔵には久しぶりに合わせる顔である。伏見屋の二階はこれらの人々の集まるために用意してあった二間つづきの広い部屋で、中央の唐紙《からかみ》なぞも取りはずしてあり、一方の壁の上には故人が遺愛の軸なぞも掛けてあった。集まって来た客の中に万福寺の松雲和尚《しょううんおしょう》の顔も見える。当日は和尚には宗旨違いでも、伏見屋の先祖たちから受けた恩顧は忘れられないと言って、和尚は和尚だけの回向《えこう》をささげに禅家風な茶色の袈裟《けさ》がけなどで来ているところは、いかにもその人らしい。当日の主人側には、長いこと隣家旧本陣に働いた清助が今は造り酒屋の番頭として、羽織袴《はおりはかま》の改まった顔つきで、二代目を助けながらあちこちの客を取り持っているのも人々の目をひいた。やがて質素な式がはじまり、神酒《みき》、白米、野菜などが型のように故人の霊前に供えられると、禰宜の鳴らす柏手《かしわで》の音は何がなしに半蔵の心をそそった。そこに読まれる千里の祭詞に耳を傾けるうちに、半生を通じてのよい道づれを失った思いが先に立って、その衆人の集まっている中で彼は周囲《あたり》かまわず男泣きに泣いた。
五
休息。休息。帰国後の半蔵が願いは何よりもまずその休息よりほかになかった。飛騨生活の形見として残った烏帽子《えぼし》[#「烏帽子」は底本では「鳥帽子」]を片づけたり無紋で袖の括《くく》ってある直衣《のうし》なぞを手に取って打ちかえしながめたりするお民と一緒になって見ると、長く別れていたあとの尽きない寝物語はよけいに彼のからだから疲れを引き出すようなものであった。彼は久しぶりに訪《たず》ねたいと思う人も多く、無沙汰《ぶさた》になった家々をもおとずれたく、日ごろ彼の家に出入りする百姓らの住居《すまい》をも見て回りたく、自ら創《はじ》めて立てた敬義学校の後身なる神坂《みさか》村小学校のことも心にかかって、現訓導の職にある小倉啓助の仕事をも助けたいとは思っていたが、一切をあと回しにしてまず休むことにした。万福寺境内に眠っている先祖道斎をはじめ先代吉左衛門の墓、それから伏見屋の金兵衛と伊之助とが新旧の墓なぞの並ぶ墓地の方で感慨の多い時でも送って帰って来ると、彼は自分の部屋の畳の上に倒れて死んだようになっていることもあった。
店座敷の障子のそばに置いてある彼の桐《きり》の机もふるくなった。その部屋は表庭つづきの前栽《せんざい》を前に、押入れ、床の間のついた六畳ほどの広さで、障子の外に見える古い松の枝が塀越《へいご》しに高く街道の方へ延びているのは、それも旧本陣としての特色の一つである。寛《くつろ》ぎの間《ま》を宗太若夫婦に譲ってからは、彼はその部屋に退くともなく退いた形で、客でもあればそこへ通し、夜は末の和助だけを
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