からほとばしり出るように流れて来た。この涙は人を打ち砕く涙である。どうかすると、彼は六三郎親子のものの住居《すまい》の隣にあった仮寓に隠れ、そこの部屋《へや》の畳の上に額を押しつけ、平田門人としての誇りをも打ち砕かれたようになって、いくら泣いても足りないほどの涙をそそいだこともあった。


 まだ半蔵は半分旅にあるような気もしていたが、ふと、恵那山の方で鳴る風の音を聞きつけてわれに帰った。十月下旬のことで、恵那山へはすでに雪が来、里にも霜が来ていた。母屋《もや》の西側の廊下の方へ行って望むと、ふるさとの山はまた彼の目にある。過ぐる四年あまり、彼が飛騨の方でながめ暮らして来た位山《くらいやま》は、あの田中|大秀《おおひで》がほめてもほめてもほめ足りないような調子で書いた物の中にも形容してあるように、大きやかではあってもはなはだしく高くなく、嶺《みね》のさまは穏やかでけわしくなく、木立ちもしげり栄えてはあるが、しかも物すごくなかった。実に威あって猛《たけ》からずと言うべき山の容儀《かたち》であるとした飛騨の翁の形容も決してほめ過ぎではなかった。あの位山を見た目で恵那山を見ると、ここにはまた別の山嶽《さんがく》の趣がある。遠く美濃の平野の方へ落ちている大きな傾斜、北側に山の懐《ふところ》をひろげて見せているような高く深い谷、山腹にあたって俗に「鍋《なべ》づる」の名称のある半円状を描いた地形、蕨平《わらびだいら》、霧ヶ原の高原などから、裾野《すその》つづきに重なり合った幾つかの丘の層まで、遠過ぎもせず近過ぎもしない位置からこんなにおもしろくながめられる山麓《さんろく》は、ちょっと他の里にないものであった。木立ちのしげり栄えて、しかも物すごくないという形容は、そのままこの山にもあてはまる。山が曇れば里は晴れ、山が晴れれば里は降るような変化の多い夏のころともちがって、物象の明らかな季節もやって来ている。
「お父《とっ》さん。」
 と声をかけて森夫と和助がそこへ飛んで来た。まだ二人《ふたり》とも父のそばへ寄るのは飛騨臭いという顔つきだ。半蔵は子供らの頭をなでながら、
「御覧、恵那山はよい山だねえ。」
 と言って見せた。どうしてこの子供らは久しぶりに旅から帰って来た父の心なぞを知りようもない。学校通いの余暇には、兄は山歩きに、木登りに。弟はまた弟で、榎《えのき》の実の落ちた裏の竹藪《たけやぶ》のそばの細道を遊び回るやら、橿鳥《かしどり》の落としてよこす青い斑《ふ》の入った小さな羽なぞを探《さが》し回るやら。ちょうど村の子供の間には桶《おけ》の箍《たが》を回して遊び戯れることが流行《はや》って来たが、森夫も和助もその箍回しに余念のないような頑是《がんぜ》ない年ごろである。
 斎《いつき》の道を踏もうとするものとして行き、牙城《ねじろ》と頼むものも破壊されたような人として帰って来た。それが半蔵の幼い子供らのそばに見いだした悄然《しょうぜん》とした自分だ。
「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した。」
 それを考えると、深い悲しみが彼の胸にわき上がる。古代の人に見るようなあの素直な心はもう一度この世に求められないものか、どうかして自分らはあの出発点に帰りたい、もう一度この世を見直したいとは、篤胤没後の門人一同が願いであって、そこから国学者らの一切の運動ともなったのであるが、過ぐる年月の間の種々《さまざま》な苦《にが》い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の付き物であるのか、そのためにかえって維新は成就しがたいのであるか、いずれとも彼には言って見ることはできなかったが、これまで国家のために功労も少なくなかった主要な人物の多くでさえ西南戦争を一期とする長い大争いの舞台の上で、あるいは傷つき、あるいは病み、あるいは自刃し、あるいは無慙《むざん》な非命の最期を遂げた。思わず出るため息と共に、彼は身に徹《こた》えるような冷たい山の空気を胸いっぱいに呼吸した。


 亡《な》き伊之助の百か日に当たる日も来た。今さら、人の亡くなった跡ばかり悲しいものはなく、月日の早く過ぐるのも似る物がないと言った昔の人の言葉を取り出すまでもなく、三十日過ぎた四十日過ぎたと半蔵が飛騨の山の方で数えた日もすでに過ぎ去って、いつのまにかその百か日を迎えた。
「お民、人に惜しまれるくらいのものは、早く亡くなるね。おれのようなばかな人間はかえってあとにのこる。」
「あのお富さんもお気の毒ですよ。早くおよめに来て、早く世の中を済ましてしまったなんて、そう言っていましたよ。あの人も、もう後家《ごけ》さんですからねえ――あの女ざかりで。」
 こんな言葉を妻とかわした後、半蔵は神祭の古式で行なわれるという上隣へ
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