笑いだ。おそらく新時代に先立つほど早くこの世を歩いて行った人で、その周囲と戦わなかったものはあるまい。そう想《おも》って見ると、翁がかずかずの著書は、いずれも明日のしたくを怠らなかったもので、まだ肩揚げのとれないような郷里の子弟のために縫い残した裄丈《ゆきたけ》の長い着物でないものはない。
田中大秀のごとき先輩の国学者の笑った生涯にすら、よく探れば涙の隠れたものがある。まして後輩の半蔵|風情《ふぜい》だ。水無神社宮司としての彼は、神仏分離の行なわれた直後の時に行き合わせた。人も知るごとく飛騨の高山地方は京都風に寺院の多いところで、神仏|混淆《こんこう》の長い旧習は容易に脱けがたく、神社はまだまだ事実において仏教の一付属たるがごとき観を有し、五、六十年前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄《じごく》に堕《お》ちるなど言われて、相応身分の者は神官と婚姻を結ぶことさえ忌み避けるほどの土地柄であった。国幣小社なる水無神社ですら、往時は一の宮八幡とも一の宮大明神とも言い、法師別当らの水無|大菩薩《だいぼさつ》など申して斎《いつ》き奉った両部の跡であった。彼が赴任して行って見たころの神社の内部は、そこの簾《すだれ》のかげにも、ここの祓《はら》い戸《ど》にも、仏教経巻などの置かれた跡でないものはなかった。なんという不思議な教えが長いことこの国人の信仰の的となっていたろう。そこにあったものは、肉体を苦しめる難行苦行と、肉体的なよろこびの崇拝と、その両極端の不思議に結びついたもので、これは明らかに仏教の変遷の歴史を語り、奈良朝以後に唐土《とうど》から伝えられた密教そのものがインド教に影響された証拠だと言った人もある。多くの偶像と、神秘と、そして末の世になればなるほど多い迷信と。一方に易《やす》く行ける浄土の道を説く僧侶《そうりょ》もまた多かったが、それはまた深く入って浅く出る宗祖の熱情を失い、いたずらに弥陀《みだ》の名をとなえ、念仏に夢中になることを教えるようなものばかりで、古代仏教徒の純粋で厳粛な男性的の鍛錬《たんれん》からはすこぶる遠かった。そういうものの支配する世界へ飛び込んで行って、一の宮宮司としての半蔵がどれほどの耳を傾ける里人を集め、どれほどの神性を明らかにし得たろう。愚かに生まれついた彼のようなものでも、神に召され、高地に住む人々に満足するような道を伝えたいと考え、この世にはまだ古《いにしえ》をあらわす道が残っていると考え、それを天の命とも考えて行った彼ではあるが、どうして彼は自ら思うことの十が一をも果たせなかった。維新以来、一切のものの建て直しとはまだまだ名ばかり、朝に晩に彼のたたずみながめた神社の回廊の前には石燈籠《いしどうろう》の立つ斎庭《ゆにわ》がひらけ、よく行った神門のそばには冬青《そよぎ》の赤い実をたれたのが目についたが、薄暗い過去はまだそんなところにも残って、彼の目の前に息づいているように見えた。
四年あまりの旅の末には教部省の方針も移り変わって行った。おそらく祭政一致の行なわれがたいことを知った政府は、諸外国の例なぞに鑑《かんが》みて、政教分離の方針を執るに至ったのであろう。この現状に平らかでない神官は任意辞職を申しいでよとあって、全国大半の諸神官が一大交代も行なわれた。元来高山中教地は筑摩《ちくま》県の管轄区域であったが、たまたまそれが岐阜《ぎふ》県の管轄に改められる時を迎えて見ると、多くの神官は世襲で土着する僧侶とも違い、その境涯《きょうがい》に安穏な日も送れなかった。高山町にある神道事務支局から支給せらるる水無神社神官らが月給の割り当ても心細いものになって行った。半蔵としては、本教を振るい興したいにも資力が足らず、宮司の重任をこうむりながらも事があがらない。しまいには、名のつけようのない寂寞《せきばく》が彼の腰や肩に上るばかりでなく、彼の全身に上って来た。
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きのふけふしぐれの雨ともみぢ葉とあらそひふれる山もとの里
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こんな歌が宮村の仮寓《かぐう》でできたのも前年の冬のことであり、同じ年の夏には次ぎのようなものもできた。
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おのがうたに憂《う》さやなぐさむさみだれの雨の日ぐらし早苗《さなえ》とるなり
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梅雨期の農夫を憐《あわれ》む心は、やがて彼自ら憐む心であった。平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとの願いから、彼も細い一筋道をたどって、日ごろの願いとする神の住居《すまい》にまで到《いた》り着いたが、あの木曾の名所図絵にもある園原の里の「帚木《ははきぎ》」のように、彼の求めるものは追っても追っても遠くなるばかり。半生の間、たまりにたまっていたような涙が飛騨の山奥の旅に行って彼のかたくなな胸の底
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