ったが、しかし武の道のゆるがせにすべきでないことを教えたのもこの戦争であった。もし政府が人民の政府であることを反省しないで威と名の一方にのみ注目するなら、その結果は測りがたいものがあろうことを教えたのもまたこの戦争であった。まったく、一時はどんな形勢に陥らないとも知りがたかった。どうやら時勢はあと戻《もど》りし、物情は恟々《きょうきょう》として、半蔵なぞはその間、宮司の職も手につかなかった。


 しかし、半蔵が飛騨での経験はこんな西南戦争の空気の中に行き悩んだというばかりではない。
 飛騨の位山《くらいやま》は、平安朝の婦人が書き残したものにも「山は位山」とあるように、昔から歌枕《うたまくら》としても知られたところである。大野郡、久具野《くぐの》の郷《さと》が位山のあるところで、この郷は南は美濃の国境へおよそ十六里、北は越中《えっちゅう》の国境へ十八里、東は信濃の国境へ十一里、西は美濃の国境へ十里あまり。まずこの山が飛騨の国の中央の位置にある。古来帝都に奉り、御笏《おんしゃく》の料とした一位《いちい》の木(あららぎ)を産するのでも名高い。この山のふもとに置いて考えるのにふさわしいような人を半蔵は四年あまりの飛騨生活の間に見つけた。もっとも、それは現存の人ではなく、深い足跡をのこして行った故人で、しかもかなりの老年まで生きた一人の翁《おきな》ではあったが。
 まだ半蔵は狩野永岳《かのうえいがく》の筆になったというこの翁の画像の前に身を置くような気がしている。この人の建立《こんりゅう》した神社の内部に安置してあった木像のそばにも身を置くような気がしている。彼の胸に描く飛騨の翁とは、いかにも山人《やまびと》らしい風貌《ふうぼう》をそなえ、杉《すぎ》の葉の長くたれ下がったような白い粗《あら》い髯《ひげ》をたくわえ、その広い額や円味《まるみ》のある肉厚《にくあつ》な鼻から光った目まで、言って見れば顔の道具の大きい異相の人物であるが、それでいて口もとはやさしい。臼《うす》のようにどっしりしたところもある。この人が田中|大秀《おおひで》だ。
 田中大秀は千種園《ちぐさえん》のあるじといい、晩年の号を荏野《じんや》翁、または荏野老人ともいう。本居宣長の高弟で、宣長の嗣子本居|大平《おおひら》の親しい学友であり、橘曙覧《たちばなあけみ》の師に当たる。その青年時代には尾張熱田の社司|粟田知周《あわたともちか》について歌道を修め、京都に上って冷泉《れいぜい》殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊《ばんこうけい》に師事したこともあるという閲歴を持つ人である。半蔵がこの人に心をひかれるようになったのは、自分の先師平田篤胤と同時代にこんなに早く古道の真髄に目のさめた人が飛騨あたりの奥山に隠れていたのかと思ったばかりでなく、幾多の古書の校訂をはじめ物語類解釈の模範とも言うべき『竹取翁物語解』のごときよい著述をのこしたと知ったばかりでもなく、あの篤胤大人に見るような熱烈必死な態度で実行に迫って行った生き方とも違って、実にこの人がめずらしい「笑い」の国学者であったからで。
 荏野の翁が事蹟《じせき》も多い。飛騨の国内にある古社の頽廃《たいはい》したのを再興したり、自らも荏野神社というものを建ててその神主となり郷民に敬神の念をよび起こすことに努めたりした。あるいは美濃の養老の瀑《たき》の由緒《ゆいしょ》を明らかにした碑を建て、あるいは美濃|垂井清水《たるいしみず》に倭建命《やまとたけるのみこと》の旧蹟を考証して、そこに居寤清水《いさめのしみず》の碑を建て、あるいはまた、継体天皇の御旧居の地を明らかにして、その碑文をえらみ、越前《えちぜん》足羽《あすは》神社の境内に碑を建てたのも、この翁だ。そうした敬神家の大秀はもとより仏法の崇拝とは相いれないのを知りながらも、金胎《こんたい》両部、あるいは神仏同体がこの国人の長い信仰で、人心を導くにはそれもよい方法とされたものか、翁が菩提寺《ぼだいじ》はもちろん、郷里にある寺々の由緒をことごとく調査して仏を大切に取り扱い、頽廃したものは興し、衰微したものは助け、各|檀家《だんか》のものをして祖先の霊を祭る誠意をいたすべきことを覚《さと》らしめた。思いがけないような滑稽《こっけい》がこの老翁の優しい口もとから飛び出す。郷里に盆踊りでもある晩は、にわか芸づくし拝見と出かける。四番盆、結構、随分おもしろく派手にやれやれと言った調子であったらしい。翁のトボケた口ぶりは、ある村の人にあてた手紙の中の文句にもよく残っている。
[#ここから2字下げ]
オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。オドレヤオドレヤ。
[#ここで字下げ終わり]
 半蔵が聞きつけたのも、この声だ。かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の
前へ 次へ
全123ページ中74ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング