お民と自分とのそばに寝かした。
この半蔵はすでに妻に話したように、子弟の教育に余生を送ろうと決心した人で、それにはまず自分の子供から始めようとしていた。彼が普通の父親以上に森夫や和助の教育に熱心であるのは、いささか飛騨の山の方で感じて来たこともあるからであった。ひどく肩でも凝る晩に、彼は森夫や和助を部屋へ呼びよせてたたかせることを楽しみにするが、それもただはたたかせない。歴代の年号なぞを諳誦《あんしょう》させながらたたかせた。
「その調子、その調子。」
と彼が言うと、二人《ふたり》の子供はかわるがわる父親のうしろに回って、その肩に取りつきながら、
「貞享《じょうきょう》、元禄《げんろく》、宝永《ほうえい》、正徳《しょうとく》……」
お経でもあげるように、子供らはそれをやった。
こうした休息の日を送りながらも、半蔵はその後の木曾地方の人民が山に離れた生活に注意することを忘れなかった。もはや山林にもたよれなくなった人民の中には木曾谷に見切りをつけ、旧《ふる》い宿場をあきらめ、追い追いと離村するものがある。長く住み慣れた墳墓の地も捨て、都会をめがけて運命の開拓をこころざす木曾人もなかなかに多い。そうでないまでも、竹も成長しない奥地の方に住むもので、耕地も少なく、農業も難渋に、山の林にでもすがるよりほかに立つ瀬のないものは勢い盗伐に流れる。中には全村こぞって厳重な山林規則に触れ、毎戸かわるがわる一人ずつの犠牲者を長野裁判所の方へ送り出すことにしているような不幸な村もある。こんなに土地の事情に暗く、生民の期待に添おうとしないで、地租改正のおりにも大いに暴威を振るった筑摩県時代の権中属《ごんちゅうぞく》本山盛徳とはどんな人かなら、その後に下伊那《しもいな》郡の方で涜職《とくしょく》の行為があって終身懲役に処せられ、佐賀の事変後にわずかに特赦の恩典に浴したとのうわさがあるくらいだ。政府は人民の政府ではないかと言いながらも、こんな行政の官吏が下にある間は、いかんともしがたかった。地方の人民がいかによい政治を慕い、良吏を得た時代の幸福な日を忘れないでいるかは、この木曾谷の支配が尾州藩の手から筑摩県の管轄に移るまでの間に民政|権判事《ごんはんじ》として在任した土屋総蔵の名がいまだに人民の口に上るのでもわかる。
この郷里のありさまを見かねて、今一度山林事件のために奔走しようとする木曾谷十六か村(三十三か村の併合による)の総代のものが半蔵の前にあらわれて来た。これは新任の長野県令あてに、木曾谷山地官民有の区別の再調査を請願する趣意で、その請願書を作るための参考に、明治四年十二月と同五年二月との二度にわたって半蔵らの作成した嘆願書、および彼の集めた材料の古書類を借り受けたいとの話が今度の発起者側からあった。もとより彼は王滝の旧戸長遠山五平と前に力をあわせ、互いに寝食を忘れるほどの奔走をつづけ、あちこちの村を訪《たず》ね回って旧戸長らの意見をまとめることに心を砕き、そのために主唱者とにらまれて戸長を免職させられたくらいだから、今度の発起者側からの頼みに異存のあろうはずもなかった。
請願書の草稿はできた。翌明治十三年の二月にはいるころには、各村戸長の意見もまとまって、その草稿の写しが半蔵のもとにも回って来るほどに運んだ。それは十六、七枚からの長い請願書で、木曾谷山地古来の歴史から、維新以来の沿革、今回請願に及ぶまでのことが述べてあるが、筋もよく通り、古来人民の自由になし来たった場所はさらに民有に引き直して明治維新の徳沢に浴するよう寛大の御沙汰《ごさた》をたまわりたいとしたものであった。旧筑摩県の本山盛徳が権中属時代に調査済みの実際を見ると、全山三十八万町歩あまりのうち、その大部分は官有地となり、余すところの民有地はわずかにその十分の一に過ぎなくなった。そのため、困窮のあまり、官林にはいって罪を犯し処刑をこうむるものは明治六、七年以来数えがたく、そのたびに徴せらるる贖罪金《しょくざいきん》もまた驚くべき額に上った。これではどうしても山地の人民が立ち行きかねるから、各村に存在する旧記古書類をもっと精密に再調査ありたいとの意味も認《したた》めてある。この請願書の趣意はいかにも時宜に適したものだとして、半蔵なぞもひどくよろこんだ。
ところが、これには異論が出て、いよいよ県庁へ差し出すまでにはところどころに草稿の訂正が加えられた。半蔵はそれを聞いてその訂正されたものを見たいと思い、宗太を通してさらに発起者側から写しの書類を送ってもらった。
「お父《とっ》さん、この請願書にはだいぶ貼《は》り紙《がみ》がしてありますよ。」
そういう宗太ももはや一人前の若者で、木曾山の前途には関心を持つらしい。半蔵は宗太と一緒にその書類に見入った。享保《きょうほう》検
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