立ち話をかえた。過ぐる年月の間、彼女の絶え間なき心づかいは、いかにして夫から預かったこの旧家を安らかに持ちこたえて行こうかということであった。それには一切を手造りにして、茶も自分の家で造り、蚕も自分で飼い、糸も自分で染め、髪につける油まで庭の椿《つばき》の実から自分で絞って、塩と砂糖と藍《あい》よりほかになるべく物を買わない方針を取って来たという。森夫や和助のはく草履《ぞうり》すら、今は下男の夜なべ仕事に家で手造りにしているともいう。これはすでに妻籠《つまご》の旧本陣でも始めている自給自足のやり方で、彼女はその生家《さと》で見て来たことを馬籠の家に応用したのであった。
間もなくお民は古い味噌納屋《みそなや》の方へ夫を連れて行って見せた。その納屋はおまんが住む隠居所のすぐ下に当たる。半蔵から言えば、先々代半六をはじめ、先代吉左衛門が余生を送った裏二階の下でもある。冬季のために野菜を貯《たくわ》えようとする山家らしい営みの光景がそこに開けた。若いよめのお槇《まき》は母屋《もや》から、下女のお徳は井戸ばたから、下男佐吉は木小屋の方から集まって来て、洗いたての芋殻《いもがら》(ずいき)が半蔵の眼前に山と積まれた。梅酢《うめず》と唐辛子《とうがらし》とを入れて漬ける四斗樽《しとだる》もそこへ持ち運ばれた。色も紅《あか》く新鮮な芋殻を樽のなかに並べて塩を振る手つきなぞは、お民も慣れたものだ。
母屋の周囲を一回りして来て、おのれの書斎とも寝部屋ともする店座敷の方へ引き返して行こうとした時、半蔵は妻に言った。
「お民、お前ばかりそう働かしちゃ置かない。」
そう言う彼は、子弟の教育に余生を送ろうとして、この古里に帰って来たことを妻に告げた。彼もいささか感ずるところがあってその決心に至ったのであった。
四
飛騨《ひだ》の四年あまりは、半蔵にとって生涯《しょうがい》の旅の中の最も高い峠というべき時であった。在職二年にして彼は飛騨の人たちと共に西南戦争に際会した。遠く戦地から離れた山の上にありながらも、迫り来る戦時の空気と地方の動揺とをも経験した。王政復古以来、「この維新の成就するまでは」とは、心あるものが皆言い合って来たことで、彼のような旧庄屋|風情《ふぜい》でもそのために一切を忍びつづけたようなものである。多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てた時。報いらるるのすくない戸長の職にも甘んじた時。あの郡県政治が始まって木曾谷山林事件のために彼なぞは戸長の職を剥《は》がれる時になっても、まだまだ多くの深い草叢《くさむら》の中にあるものと共に時節の到来を信じ、新しい太陽の輝く時を待ち受けた。やかましい朝鮮問題をめぐって全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰《ぼしん》以来の政府内部に分裂の行なわれたと聞く時になっても、まだそれでも彼なぞは心を許していた。内争の影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本《くまもと》の暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋《きりのとしあき》らのごとき人物が自ら参加した維新に反して、さらに新政の旗をあげ、強い武力をもってするよりほかに今日を救う道がないとすると聞くようになって、つくづく彼はこの維新の成就さるる日の遠いことを感じた。
西南戦争を引き起こした実際の中心人物の一人《ひとり》とも目すべき桐野利秋とはどんな人であったろう。伝うるところによれば、利秋は陸軍少将として明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや一定の法規の下にはあったが、多くは各藩混交のわがまま兵であるところから、その統御もすこぶる困難とされていた。古英雄の風《ふう》ある利秋はまた、区々たる規則をもって兵隊を拘束することを好まない人で、多くは放任し、陸軍省の法規なぞには従わなかった。もとより本省の命令が鎮台兵の間に行なわるべくもない。この桐野流をよろこばない本省では、谷干城《たにたてき》に司令長官を命じ、利秋は干城と位置を換え陸軍裁判長となったことがある。その時の利秋の不平は絶頂に達して、干城に対し山県大輔《やまがたたいふ》をののしった。その言葉に、彼山県は土百姓らを集めて人形を造る、はたして何の益があろうかと。大輔をののしるのはすなわち干城をののしるのであった。元来利秋は農兵を忌みきらって、兵は士族に限るものと考えた人であった。これが干城と利秋との永《なが》の別れであったともいう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その正反対に立った利秋とは、ついに明治十年には互いに兵火の間に相見《あいまみ》ゆる人たちであった。
この戦争は東北戦争よりもっと不幸であった。な
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