持ちたいと言う。
「旦那《だんな》、お前さまに折り入ってお願いがある。」
「なんだい、佐吉。言って見ろ。」
「お前さまも知ってるとおり、おれには苗字《みょうじ》がない。」
「おゝ、佐吉にはまだ苗字がなかったか。」
「見さっせれ。皆と同じように、おれもその苗字がほしいわなし。お前さまのような人にそれをつけてもらえたら、おれもこうして長く御奉公したかいがあるで。」
 この男の言うようにすると、自分の姓はどんなものでもいい。半蔵の方で思ったようにつけてくれれば、それでいい。多くの無筆なものと同じように、この男の親も手の荒れる畠《はたけ》仕事に追われ通して、何一つ書いたものがあとに残っていない。小使い帳一冊残っていない。家に伝わるはっきりした系図というようなものもない。黙って働いて、黙って死んで行った仲間だ。ついては、格別やかましい姓を名乗りたいではないが、自分の代から始めることであるから、何か自分に縁故のあるものをほしい。日ごろ本陣の北に当たる松林で働いて来た縁故から、北林の苗字はどうあろうかと言い出したので、半蔵は求めらるるままに北林佐吉としてやった。山口へ帰ったら早速《さっそく》その旨《むね》を村役場へ届けいでよとも勧めた。この男には半蔵は家に伝わる田地を分け、下男奉公のかたわら耕させ、それを給金の代わりに当ててあった。女ぎらいかと言われたほどの変わり者で、夜遊びなぞには目もくれず、昼は木小屋、夜は母屋《もや》の囲炉裏ばたをおのれの働く場所として、主人らの食膳《しょくぜん》に上る野菜という野菜は皆この男の手造りにして来たものであった。
 青山氏系図、木曾谷中御免荷物材木通用帳、御年貢《おねんぐ》皆済目録、馬籠宿駅印鑑、田畑家屋敷|反別帳《たんべつちょう》、その他、青山の家に伝わる古い書類から、遠い先祖の記念として残った二本の鎗《やり》、相州三浦にある山上家から贈られた家宝の軸――一切それらのものの引き渡しの時も迫った。ほとほと半蔵には席の暖まるいとまもない。彼は店座敷の障子のわきにある自分の旧《ふる》い桐《きり》の机の前にすわって見る間もなく、またその座を立って、宗太へ譲るべき帳面の類《たぐい》なぞ取りまとめにかかった。何げなくお粂はその部屋《へや》をのぞきに来て、本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃された当時のことを思い出し顔であった。家の女衆の中で最も深く瓦解《がかい》の淵《ふち》をのぞいて見たものも、この早熟な娘だ。
「おゝ、お粂か。」
 と半蔵は声をかけながら、いっぱいに古い書類のちらかった部屋の内を歩き回っていた。お粂ももはや二十歳の春を迎えている。死をもって自分の運命を争おうとしたほどの娘のところへも、新規な結婚話が、しかも思いがけない木曾福島の植松家の方から進められて来て、不思議な縁の、偶然の力に結ばれて行こうとしている。
「お父《とっ》さん。やっとわたしも決心がつきました。」
 お粂はそれを言って見せたぎり、堅く緋《ひ》ぢりめんの半襟《はんえり》をかき合わせ、あだかも一昨年《おととし》の古疵《ふるきず》の痕《あと》をおおうかのようにして、店座敷から西の廊下へ通う薄暗い板敷きの方へ行って隠れた。


 三日過ぎには半蔵は中津川まで動いた。この飛騨行きに彼は妻を同伴したいと思わないではなく、今すぐにと言わないまでも、先へ行って落ち着いたら妻を呼び迎えたいと思わないではなかったが、どうしてお民というものが宗太の背後《うしろ》にいなかったら、馬籠の家は立ち行きそうもなかった。下男佐吉も今度は別れを惜しんで、せめて飛騨の宮村までは彼の供をしたいと言い出したが、それも連れずであった。旅の荷物は馬につけ、出入りの百姓兼吉に引かせ、新茶屋の村はずれから馬籠の地にも別れて、信濃《しなの》と美濃《みの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》の雪道を下って来た。
 中津川では、半蔵は東京の平田|鉄胤《かねたね》老先生や同門の医者金丸恭順などの話を持って、その町に住む二人《ふたり》の旧友を訪《たず》ねた。長く病床にある香蔵は惜しいことにもはや再び起《た》てそうもない。景蔵はずっと沈黙をまもる人であるが、しかしあって見ると、相変わらずの景蔵であった。
 険しい前途の思いは半蔵の胸に満ちて来た。彼は宮村まで供をするという兼吉を見て、ともかくも馬で行かれるところまで行き、それから先は牛の背に荷物をつけ替えようと語り合った。というのは、岩石のそそり立つ山坂を平地と同じように踏めるのは、牛のような短く勁《つよ》い脚《あし》をもったものに限ると聞くからであった。雪をついて飛騨の山の方へ落ちて行く前に、半蔵は中津川旧本陣にあたる景蔵の家の部屋を借り、馬籠の伏見屋あてに次ぎのような意味の手紙を残した。
「小竹伊之助君――しばらくのお別れに
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