を凍らせてすべる子供らの間に起こっている。坂になった町の片側をたくみにすべって行くものがある。ころんで起き上がるものがある。子供らしい笑い声も起こっている。
山家《やまが》育ちの子供らは手に手に鳶口《とびぐち》を携え、その手のかじかむのも忘れ、降り積もった雪道の遊戯に余念がない。いずれも元の敬義学校の生徒だ。名も神坂村《みさかむら》小学校と改められた新校舎の方へ通《かよ》っている馬籠《まごめ》の子供らだ。二月上旬の末に半蔵は平兵衛と連れだちながら郷里に着いて、伏見屋の前あたりまで帰って行くと、自分を呼ぶその教え子らの声を聞いた。
「お父《とっ》さん。」
と呼びながら、氷すべりの仲間から離れて半蔵の方へ走って来るのは、腕白《わんぱく》ざかりな年ごろになった三男の森夫であった。そこには四男の和助までが、近所の年長《としうえ》の子供らの仲間にはいりながら、ほっペたを紅《あか》くし、軽袗《かるさん》の裾《すそ》のぬれるのも忘れて、雪の中を歩き回るほど大きくなっていた。
新しい春とは言っても山里はまだ冬ごもりのまっ最中である。半蔵の留守宅には、継母のおまんをはじめ、妻のお民、娘お粂《くめ》、長男宗太から下男佐吉らまで、いずれも雪の間に石のあらわれた板屋根の下で主人の帰りを待ち受けていた。東京を立ってからの半蔵はすでに八十余里の道を踏んで来て、凍えもし、くたぶれもしていたが、そう長く自分の家にとどまることもできない人であった。三日ばかりの後にはまた馬籠を立って、任地の方へ向かわねばならなかった。あまりに飛騨行きの遅れることは彼の事情が許さなかったからで。馬につけて来た荷もおろされ、集まって来る子供の前に旅の土産《みやげ》も取り出され、長い留守中の話や東京の方のうわさがそこへ始まると、早くも予定の日取りを聞きつけた村の衆が無事で帰って来た半蔵を見にあとからあとからと詰めかけて来る。松本以来の訓導小倉啓助は神坂村小学校の報告を持って、馬籠町内の旧組頭|笹屋庄助《ささやしょうすけ》はその後の山林事件の成り行きと村方養蚕奨励の話なぞを持って、荒町《あらまち》の禰宜《ねぎ》松下千里は村社|諏訪社《すわしゃ》の祭礼復興の話を持ってというふうに。
わずか三日ばかりの半蔵が帰宅は家のものにとっても実にあわただしかった。炉の火を大きな十能《じゅうのう》に取って寛《くつろ》ぎの間《ま》へ運び、山家らしい炬燵《こたつ》に夫のからだをあたためさせながら、木曾福島の植松家からあった娘お粂の縁談を語り出すのはお民だ。そこへ手のついた古風な煙草盆《たばこぼん》をさげて来て、ふるさとにあるものがこのままの留守居を続けることはいかにも心もとないと言い出すのはおまんだ。宗太もまだ十八歳の若者ではあるが、村では評判の親孝行者であり、半蔵の従兄《いとこ》に当たる栄吉にその後見をさせ、旧本陣時代からの番頭格清助にも手伝わせたら、青山の家がやれないことはあるまい、半蔵の水無神社宮司として赴任するのを機会にこの際よろしく家督を跡目相続の宗太に譲り、それから自分の思うところをなせ――そう言うおまんは髪こそ白さを加えたが、そこへ手をついて頭を上げ得ないでいる半蔵を前に置いて、この英断に出た。たとい城を枕《まくら》に討死《うちじ》にするような日が来ても旧本陣の格はくずしたくないと言いたげな継母の口から、日ごろの経済のうとさを一々指摘された時は、まったく半蔵も返す言葉がなかった。
今度の帰国の日は、半蔵が自分の生涯《しょうがい》の中でもおそらく忘れることのできなかろうと思った日である。彼が四十四歳で隠居の身となることを決心したのもその間であった。これは先代の吉左衛門が六十四歳まで馬籠の宿役人を勤め、それから家督を譲って、隠居したのに比べると二十年早い。また、先々代半六が六十六歳のおりの引退に比べると二十二年も早い。
このさみしさ、あわただしさの中で、半蔵はすこしの暇でも見つけるごとに隣家の伏見屋へ走って行った。無事な伊之助の顔を見て、いろいろ世話になった礼を述べ、東京浅草左衛門町までの旅先で届けてもらった金子のことも言い、継母にはまたしかられるかもしれないが亡《な》き吉左衛門が彼にのこして行った本陣林のうちを割《さ》いてその返済方にあてたいと頼んだ。彼の長男があの年齢《とし》のうら若さで、はたしてやり切れるかどうかもおぼつかなくはあるが、お民も付いているし、それに自分はもはや古い青山の家に用のないような人間であるから、継母の言葉に従ったとも告げた。そして彼が伊之助にその話をして家に引き返して来て見ると、長いこと独身で働いていた下男の佐吉があかぎれだらけの大きな手をもみもみ彼の前へ来た。この男も、今度いよいよ長い暇《いとま》を告げ、隣村山口に帰り、嬶《かか》をもらって竈《かまど》を
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