ていたほどだから、ちょうど客がその声をかけてはいって来たのは、自身であだ名を呼びながら来たようなものであった。お隅はそれを聞くと座にもいたたまれない。下女なぞは裏口まで逃げ出して隠れた。
 ともあれ、半蔵の引き起こした献扇事件は、暗い入檻《にゅうかん》中の五日と、五十日近い謹慎の日とを送ったあとで、こんなふうにその結末を告げた。五十日の懲役には行かずに済んだものの、贖罪《しょくざい》の金は科せられた。どうして、半蔵としては笑い事どころではない。押し寄せて来る時代の大波を突き切ろうとして、かえって彼は身に深い打撃を受けた。前途には、幾度か躊躇《ちゅうちょ》した飛騨《ひだ》の山への一筋の道と、神の住居《すまい》とが見えているのみであった。
 夜が来た。左衛門町の二階の暗い行燈《あんどん》のかげで、めずらしくも先輩|暮田正香《くれたまさか》がこの半蔵の夢に入った。多くの篤胤没後の門人中で彼にはことに親しみの深く忘れがたいあの正香も、賀茂《かも》の少宮司から熱田《あつた》の少宮司に転じ、今は熱田の大宮司として働いている人である。その夜の旅寝の夢の中に、彼は正式の装束《しょうぞく》を着けた正香が来て、手にする白木《しらき》の笏《しゃく》で自分を打つと見て、涙をそそぎ、すすり泣いて目をさました。


 正月の末まで半蔵は東京に滞在して、飛騨行きのしたくをととのえた。斎《いつき》の道は遠く寂しく険しくとも、それの踏めるということに彼は心を励まされて一日も早く東京を立ち、木曾街道経由の順路としてもいったんは国に帰り、それから美濃《みの》の中津川を経て飛騨へ向かいたいと願っていたが、種々《さまざま》な事情のためにこの出発はおくれた。みずから引き起こした献扇事件には彼もひどく恐縮して、その責めを負おうとする心から、教部省内の当局者あてに奏進始末を届け出て、進退を伺うということも起こって来た。彼の任地なる飛騨高山地方は当時筑摩県の管下にあったが、水無神社は県社ともちがい、国幣小社の社格のある関係からも、一切は本省の指令を待たねばならなかった。一方にはまた、かく東京滞在の日も長引き、費用もかさむばかりで、金子《きんす》調達のことを郷里の伏見屋伊之助あてに依頼してあったから、その返事を待たねばならないということも起こって来た。幸い本省からはその儀に及ばないとの沙汰《さた》があり、郷里の方からは伊之助のさしずで、峠村の平兵衛に金子を持たせ、東京まで半蔵を迎えによこすとの通知もあった。今は彼も心ぜわしい。再び東京を見うるの日は、どんなにこの都も変わっているだろう。そんなことを思いうかべながら、あちこちの暇乞《いとまご》いにも出歩いた。旧|組頭《くみがしら》廃止後も峠のお頭《かしら》で通る平兵衛は二月にはいって、寒い乾《かわ》き切った日の夕方に左衛門町の宿へ着いた。
 半蔵と平兵衛とは旧宿場時代以来、ほとんど主従にもひとしい関係にあった。どんなに時と場所とを変えても、この男が半蔵を「本陣の旦那《だんな》」と考えることには変わりはなかった。慶応四年の五月から六月へかけて、伊勢路《いせじ》より京都への長道中を半蔵と共にしたその同じ思い出につながれているのも、この男である。平兵衛は伊之助から預かって来た金子ばかりでなく、半蔵が留守宅からの言伝《ことづて》、その後の山林事件の成り行き、半蔵の推薦にかかる訓導小倉啓助の評判など、いろいろな村の話を彼のところへ持って来た。東京から伝わる半蔵のうわさ――ことに例の神田橋外での出来事から入檻を申し付けられたとのうわさの村に伝わった時は、意外な思いに打たれないものはなかった。中にも半蔵のために最も心を痛めたものは伏見屋の主人であったという話をも持って来た。
 平兵衛は言った。
「そりゃ、お前さま、何もわけを知らないものが聞いたら、たまげるわなし。」
「……」
「ほんとに、人のうわさにろくなことはあらすか。半蔵さまが気が違ったという評判よなし。お民さまなぞはそれを聞いた時は泣き出さっせる。皆のものが言うには、本陣の旦那はあんまり学問に凝らっせるで、まんざら世間の評判もうそではなからず、なんて――村じゃ、そのうわささ。そんなばかなことがあるもんかッて、お前さまの肩を持つものは、伏見屋の旦那ぐらいのものだった。まあ、おれも、今度出て来て見て、これで安心した。」
「……」


 飛騨を知らない半蔵が音に聞く嶮岨《けんそ》な加子母峠《かしもとうげ》の雪を想像し、美濃と飛騨との国境《くにざかい》の方にある深い山間の寂寞《せきばく》を想像して、冬期には行く人もないかと思ったほど途中の激寒を恐れたことは、平兵衛の上京でやや薄らぎもした。というのは、飛騨高山地方から美濃の中津川まで用|達《た》しに出て来た人があったとかで、伊之助は中津川でその人
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