承《う》け継ぐ少数の人たちもないではない。しかし、ここに本も読めば筆も立つ旧幕の人の一群というものがある。それらの人たちが西洋を求める態度はすこし違う。彼らは早く西洋の事情に通じる境涯にも置かれてあって、幕府の洋書取調所(蕃書《ばんしょ》取調所の後身)に関係のあったものもあり、横浜開港場の空気に触れる機会の多かったものもある。それらの人たちはまた、閲歴も同じくはないし、旧幕時代の役の位もちがい、禄《ろく》も多かったものと寡《すく》なかったものとあるが、大きな瓦解《がかい》の悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。幕末の遺臣として知られた山口|泉処《せんしょ》、向山黄村《むこうやまこうそん》、あの人たちもどうなったろうと思われる中で、瓦解以前に徳川政府の使命を帯びフランスに赴《おもむ》いた喜多村瑞見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の旧廬《きゅうろ》から身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者として言論と報道との舞台に上って来た。もっとも、瑞見はその出発が幕府|奥詰《おくづめ》の医師であり、本草《ほんぞう》学者であって、かならずしも西洋をのみ鼓吹《こすい》する人ではなかったが、後進で筆も立つ人たちが皆瑞見のような立場にあるのではない。中には、自国に失望するあまりに、その心を見ぬヨーロッパの思慕へとかえるものがある。戯文に隠れて、一般の異国趣味をあおぎ立てるものもある。「なるほど、世の中は変わりもしよう。しかし、よりよい世の中は――決して。」――とは、不平不満のやりどころのないようなそれらの人たちより陰に陽に聞こえて来る強い非難の声だ。半蔵なぞにして見ると、今の時はちょうど遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたその同じ大切な時にあたる。中世の殻《から》もまだ脱ぎ切らないうちに、かつてこの国のものが漢土に傾けたその同じ心で、今また西洋にのみあこがれるとしたら。かつては漢意をもってし、今は洋意をもってする。模倣の点にかけては同じことだ。どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦わねばならぬ。その意味から言っても、平田篤胤没後の門人としてはこうした世の風潮からも自分らの内にあるものを護《まも》らねばならなかった。すくなくも、荷田大人《かだうし》以来国学諸先輩の過去に開いた道が外来の学問に圧倒せられて、無用なものとなって行こうとは、彼には考えられもしなかった。

       四

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  裁断申し渡し番付の写し
[#地から8字上げ]信濃国《しなののくに》筑摩《ちくま》郡|神坂《みさか》村平民
[#地から8字上げ]当時|水無《みなし》神社宮司兼中講義
[#地から3字上げ]青山半蔵
その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において叡覧《えいらん》に備わらんことを欲し、みだりに供奉《ぐぶ》の乗車と誤認し、投進せしに、御《ぎょ》の車駕《しゃが》に触る。右は衝突|儀仗《ぎじょう》の条をもって論じ、情を酌量《しゃくりょう》して五等を減じ、懲役五十日のところ、過誤につき贖罪金《しょくざいきん》三円七十五銭申し付くる。
  明治八年一月十三日
[#地から4字上げ]東京裁判所
[#ここで字下げ終わり]
 ここに半蔵の本籍地を神坂村とあるは、彼の郷里馬籠と隣村湯舟沢とを合わせて一か村とした新しい名称をさす。言いかえれば、筑摩県管下、筑摩郡、神坂村、字馬籠である。最も古い交通路として知られた木曾の御坂《みさか》は今では恵那山につづく深い山間《やまあい》の方に埋《うず》もれているが、それに因《ちな》んでこの神坂村の名がある。郡県政治のあらわれの一つとして、宿村の併合が彼の郷里にも行なわれていたのである。
 待ちに待った日はようやく半蔵のところへ来た。この申し渡しの書付にあるように、いよいよ裁判も決定した。夕方から、彼は多吉夫婦と共に左衛門町の下座敷に集まった。思わず出るため息と共に、自由な身となったことを語り合おうとするためであった。そこへ多吉を訪《たず》ねて門口からはいって来た客がある。多吉には川越《かわごえ》時代からの旧《ふる》いなじみにあたる青物問屋の大将だ。多吉が俳諧《はいかい》友だちだ。こちらは一段落ついた半蔵の事件で、宿のものまで一同重荷をおろしたような心持ちでいるところであったから、偶然にもその客がはいって来た時、玄関まで出迎える亭主を見るといきなり向こうから声をかけたが、まるでその声がわざわざ見舞いにでも来てくれたように多吉の耳には響いた。
「まずまあ、多吉さん。」
 これは半蔵にも、時にとってのよい見舞いの言葉であった。ところが、この「まずまあ」は、実は客の口癖で、お隅は日ごろの心やすだてからそれをその人のあだ名にして、下女までそう呼び慣れ
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