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洋服すがたに
ズボンとほれて、
袖《そで》ないおかたで苦労する。
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激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心を抱《いだ》いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いの粋《いき》な風に吹かれては、都の女の俘虜《とりこ》となるものも多かった。一方には当時|諷刺《ふうし》と諧謔《かいぎゃく》とで聞こえた仮名垣魯文《かながきろぶん》のような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『阿愚楽鍋《あぐらなべ》』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。
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「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」
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これは開化の魁《さきがけ》たる牛店を背景に、作者が作中人物の一人《ひとり》をして言わせた会話の中の文句である。どんな人物の口からこんな文句が出るかというに、にわか散切《ざんぎ》りの西洋ごしらえ、フランスじこみのマンテルにイギリスのチョッキを着け、しかもそれは柳原あたりの朝市で買い集めた洋服であり、時計はくさりばかりぶらさげて、外見をつくろおうとする男とある。おのれ一人が文明人という顔つきで、『世界|国尽《くにづくし》』などをちょっと口元ばかりのぞいて見た知識を振り回し、西洋のことならなんでも来いと言い触らすこまりものだともある。おもて華《はな》やかに、うらの貧しいこんな文明人はついそこいらの牛店にもすわり込んで、肉鍋と冷酒《ひやざけ》とを前に、気焔《きえん》をあげているという時だ。寄席《よせ》の高座で、芸人の口をついて出る流行唄《はやりうた》までが変わって、それがまた英語まじりでなければ納まらない世の中になって来た。「待つ夜の長き」では、もはや因循で旧弊な都々逸《どどいつ》の文句と言われる。どうしてもそれは「待つ夜のロング」と言わねばならない。「猫撫《ねこな》で声」というような文句ももはや眠たいとされるようになった。どうしてもそれは「キャット撫で声」と言わねば人を驚かさない。すべてこのたぐいだ。
半蔵は腕を組んでしまって、渦巻《うずま》く世相を夢のようにながめながら、照りのつよい日のあたった南向きの障子のわきにすわりつづけた。まだ春も浅く心も柔らかな少女たちが、今にこの日本の国も英語でなければ通じなくなる時が来ると信じて、洋書と洋傘《ようがさ》とを携え、いそいそと語学の教師のもとへ通うものもあるというような、そんな人のうわさを左衛門町の家のものから聞くだけでも、彼は胸がいっぱいになった。
終日読書。
青年時代から半蔵が見まもって来たまぼろしは、また彼の胸に浮かぶ。そのまぼろしの正体を彼は容易に突きとめることができなかった。彼の心に描く「黒船」とは、およそ三つのものを載せて来る。耶蘇教《ヤソきょう》はその一つ、格物究理の洋学はその一つ、交易による世界一統もまたその一つである。彼なぞの考えるところによると、西洋の学問するものも一様ではない、すくなくも開国以前と以後とでは、洋学者の態度にもかなりな相違がある。今さら、「東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)」と言ったあの佐久間象山《さくましょうざん》を引き合いに出すまでもなく、開港以前の洋学者はいずれもこの国に高い運命の潜むことを信じて行ったようである。前の高橋作左衛門、土生玄磧《はぶげんせき》、後の渡辺崋山《わたなべかざん》、高野長英、皆そういう人たちである。農園と経済学との知識をもつ洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の佐藤信淵《さとうのぶひろ》のごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟に譲り、隠居して、それから洋学にこころざしたような人は決してめずらしくない。その学問は藩の公《おおやけ》に許すところであらねばならぬ。洋学者としての重い責めをも果たさねばならぬ。彼らが境涯《きょうがい》の困難であればあるだけ、そのこころざしも堅く、学問も確かに、著述も残し、天文、地理、歴史、語学、数学、医学、農学、化学、または兵学のいずれにも後の時代のためにしたくをなし得たわけである。そこへ行くと開国以後の洋学者というものはその境涯からして変わって来た。今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来た。彼の目の前にひらけているのは、実に浅く普及して来た洋学の洪水《こうずい》だ。
もとよりその中には、開国以前からの洋学者ののこしたこころざしを
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