浅草|左衛門町《さえもんちょう》を出たぎりだ。
 左衛門町の家のものは音沙汰《おとさた》のない半蔵の身の上を案じ暮らした。彼が献扇事件は早くも町々の人の口に上って、多吉夫婦の耳にもはいらないではない。それにつけてもうわさとりどりである。主人持ちの多吉は茅場町《かやばちょう》の店からもいろいろなことを聞いて来て、ただただ妻のお隅《すみ》と共に心配する。第一、あの半蔵がそんな行為に出たということすら、夫婦のものはまだ半信半疑でいた。
 そこへ巡査だ。ちょうど多吉は不在の時であったので、お隅が出て挨拶《あいさつ》すると、その巡査は区内の屯所《とんしょ》のものであるが、東京裁判所からの通知を伝えに来たことを告げ、青山半蔵がここの家の寄留人であるかどうかをまず確かめるような口ぶりである。さてはとばかり、お隅はそれを聞いただけでも人のうわさに思い当たった。巡査は格子戸口《こうしどぐち》に立ったまま、言葉をついで、入檻《にゅうかん》中の半蔵が帰宅を許されるからと言って、身柄を引き取りに来るようとの通知のあったことを告げた。
 お隅はすこし息をはずませながら、
「まあ、どういうおとがめの筋かぞんじませんが、青山さんにかぎって悪い事をするような人じゃ決してございません。宅で本所《ほんじょ》の相生町《あいおいちょう》の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで国から出てまいりまして、しばらく宅に置いてくれと申されたこともございました。そんな縁故で、今度もたよってまいりまして、つい先ごろまでは教部省の考証課という方に宅から通《かよ》っておりました。まあ、手前どもじゃ、あの人の平素《ふだん》の行ないもよくぞんじておりますが、それは正しい人でございます。」
 突然巡査の訪《たず》ねて来たことすら気になるというふうで、お隅は二階の客のためにこんな言いわけをした。それを聞くと、巡査はかみさんの言葉をさえぎって、ただ職掌がらこの通知を伝えるために来ただけのことを断わり、多吉なりその代理人なりが認印持参の上で早く本人を引き取れと告げて置いて、立ち去った。
 ともかくも半蔵が帰宅のかなうことを知って、さらに心配一つふえたように思うのはお隅である。というは、亭主多吉が町人の家に生まれた人のようでなく、世間に無頓着《むとんちゃく》で、巡査の言い置いて行ったような実際の事を運ぶには全く不向きにできているからであった。多吉の俳諧三昧《はいかいざんまい》と、その放心さと来たら、かつて注文して置いた道具の催促に日ごろ自分の家へ出入りする道具屋|源兵衛《げんべえ》を訪ねるため向島《むこうじま》まで出向いた時、ふと途中の今戸《いまど》の渡しでその源兵衛と同じ舟に乗り合わせながら、「旦那《だんな》、どちらへ」と聞かれてもまだ目の前にその人がいるとは気づかなかったというほどだ。「旦那、その源兵衛はおれのことじゃありませんか」と言われて、はじめて気がついたというほどの人だ。お隅はこの亭主の気質をのみ込んでいる。場合によっては、彼女自身に夫の代理として、半蔵が身柄を引き取りに行こうと決心し、帯なぞ締め直して亭主の帰りを待っていた。はたして、多吉が屋外《そと》から戻《もど》って来た時は、お隅以上のあわてかたであった。
「お前さん、いずれこれにはわけのあることですよ。あの青山さんのことですもの、何か考えがあってしたことですよ。」
 お隅はそれを多吉に言って見せて、慣れない夫をそういう場所へ出してやるのを案じられると言う。背も高く体格も立派な多吉は首を振って、自身出頭すると言う。幸い半蔵の懇意にする医者、金丸恭順がちょうどそこへ訪ねて来た。この同門の医者も半蔵が身の上を案じながらやって来たところであったので、早速《さっそく》多吉と同行することになった。
「待ってくださいよ。」
 と言いながら、お隅は半蔵が着がえのためと、自分の亭主の着物をそこへ取り出した。町人多吉の好んで着る唐桟《とうざん》の羽織は箪笥《たんす》の中にしまってあっても、そんなものは半蔵には向きそうもなかった。
 そこでお隅は無地の羽織を選び、藍微塵《あいみじん》の綿入れ、襦袢《じゅばん》、それに晒《さらし》の肌着《はだぎ》までもそろえて手ばしこく風呂敷《ふろしき》に包んだ。彼女は新しい紺足袋《こんたび》をも添えてやることを忘れていなかった。
「いずれ先方には待合所がありましょうからね、そっくりこれを着かえさせてくださいよ。青山さんの身につけたものは残らずこの風呂敷包みにして帰って来てくださいよ。」
 そういうお隅に送られて、多吉は恭順と一緒に左衛門町の門《かど》を出た。お隅はまた、パッチ尻端折《しりはしょ》りの亭主の後ろ姿を見送りながら、飛騨行きの話の矢先にこんな事件の突発した半蔵が無事の帰宅を見るまでは安心
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