に起こって来て、自分らの持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりにはいって来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た。
 月の中旬が来るころには、いよいよ半蔵が水無神社宮司の拝命もおもてむきの沙汰《さた》となった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。


 朝が来た。例のように半蔵が薄暗い空気の中で水垢離《みずごり》を執り、からだを浄《きよ》め終わるころは、まだ多吉方の下女も起き出さないで、井戸ばたに近い勝手口の戸障子も閉《し》まっていた。そこいらには、町中ながらに鶏の鳴き声が朝霧の中に聞こえていた。
 その日、半蔵は帝《みかど》の行幸のあることを聞き、神田橋《かんだばし》まで行けばその御道筋に出られることを知り、せめて都を去る前に御通輦《ごつうれん》を拝して行こうとしていた。彼はそのことを多吉夫婦に告げ、朝の食事をすますとすぐ羽織袴《はおりはかま》に改めて、茅場町《かやばちょう》の店へ勤めに通う亭主より一歩《ひとあし》早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、次第に町々の空も晴れて、なんとなく改まった心持ちが彼の胸にわいた。今は彼も水無神社の宮司であるばかりでなく、中講義を兼ねていた。
 神田橋見附跡の外には、ぽつぽつ奉拝の人々が集まりつつあった。待つこと二時間ばかり。そのうちに半蔵の周囲は、欄干の支柱にからかねの擬宝珠《ぎぼし》のついた古ぼけた橋の畔《たもと》から、当時「青い戸袋」と呼びなされた屋敷長屋のペンキ塗りの窓の下の方へかけて、いっぱいの人で、どうかすると先着の彼なぞはうしろにいるものから前の方へ押し出されるほどになった。そのたびに、棒を携えた巡査が前列にあるものを制しに来た。
 明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の征韓論《せいかんろん》破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩|艱難《かんなん》の時に当たって、万民を統《す》べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢《くさむら》の中にある名もない民の一人《ひとり》でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫《はんらん》を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、

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蟹《かに》の穴ふせぎとめずは高堤《たかづつみ》やがてくゆべき時なからめや     半蔵
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 この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。
 さらに三十分ほど待った。もはや町々を警《かた》めに来る近衛《このえ》騎兵の一隊が勇ましい馬蹄《ばてい》の音も聞こえようかというころになった。その鎗先《やりさき》にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情《こころ》が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗《おさきのり》と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額《ひたい》を大地につけ、袴《はかま》のままそこにひざまずいた。
「訴人《そにん》だ、訴人だ。」
 その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
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     第十二章

       一

 五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。飛騨《ひだ》の水無《みなし》神社|宮司《ぐうじ》を拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで御通輦《ごつうれん》を拝しに行くと言って、
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