際会した。半蔵が同門の諸先輩ですら、ややもすれば激しい潮流のために押し流されそうに見えて来た。いったい、幕末から御一新のころにかけて、あれほどの新機運をよび起こしたというのも、その一つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった。そういう中で、最も古いところに着眼して、しかも最も新しい路をあとから来るものに教えたのは国学者仲間の先達《せんだつ》であった。あの賀茂真淵《かものまぶち》あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌《すがた》を明るみへ持ち出すことができた。そこから、一つの精神が生まれた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平田篤胤、および平田派諸門人が次第に実行を思う心はまずそこに胚胎《はいたい》した。なんと言っても「言葉」から歴史にはいったことは彼らの強味で、そこから彼らは懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼らは健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それにはまずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも撓《た》めず欲をもいとわない生の肯定はこの先達があとから歩いて来るものにのこして置いて行った宿題である。その意味から言っても、国学は近《ちか》つ代《よ》の学問の一つで、何もそうにわかに時世おくれとされるいわれはないのであった。
もともと平田篤胤が後継者としての鉄胤は決して思いあがった人ではない。故篤胤翁の祖述者をもって任ずる鉄胤は、一切の門人をみな平田篤胤没後の門人として取り扱い、決しておのれの門人とは見なさなかったのが、何よりの証拠だ。多くの門人らもまたこの師の気風を受け継がないではない。ただ復古の夢を実顕するためには、まっしぐらに駆けり出そうとするような物を企つる心から、時には師の引いた線を超《こ》えて埓《らち》の外へ飛び出したものもあった。けれども、その単純さから、門人同志の親しみも生まれ、団結も生まれることを知ったのであった。あの王政復古の日が来ると同時に、同門の人たちの中には武器を執って東征軍に従うものがあり、軍の嚮導者《きょうどうしゃ》たることを志すものがあり、あるいは徳川幕府より僧侶《そうりょ》に与えた宗門権の破棄と神葬復礼との方向に突き進むものがあって、過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力を覆《くつがえ》すことに力を尽くしたというのも、みなその単純な、しかし偽りも飾りもない心から出たことであった。ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教|廓清《かくせい》の一新時代はそこから開けて来た。暗い寺院に肉食妻帯の厳禁を廃し、多くの僧尼の生活から人間を解き放ったというのも、虚偽を捨てて自然《おのずから》に帰れとの教えから出たことである。すくなくもこの国学者の運動はまことの仏教徒を刺激し、その覚醒《かくせい》と奮起とを促すようになった。いかんせん、多勢寄ってたかってすることは勢いを生む。しまいには、地方官の中にすら廃仏の急先鋒《きゅうせんぽう》となったものがあり、従来の社人、復飾の僧侶から、一般の人民まで、それこそ猫《ねこ》も杓子《しゃくし》もというふうにこの勢いを押し進めてしまった。廃寺は毀《こぼ》たれ、垣《かき》は破られ、墳墓は移され、残った礎《いしずえ》や欠けた塊《つちくれ》が人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いを抱《いだ》かしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。言って見れば、国学全盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであった。しかも、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えた。
いかに平田門人としての半蔵なぞがやきもきしても、この頽勢《たいせい》をどうすることもできない。大きな自然《おのずから》の懐《ふところ》の中にあるもので、盛りがあって衰えのないものはないように、一代の学問もまたこの例にはもれないのか。その考えが彼を悲しませた。彼には心にかかるかずかずのことがあって、このまま都を立ち去るには忍びなかった。
まだ半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の誰彼《たれかれ》が意見をもそれとなく聞いて見るために町を出歩いた。何も飛騨の山まで行かなくとも他に働く道はあろうと言って彼を引き止めようとしてくれる人もない。今はそんな時ではないぞと言ってくれるような人はなおさらない。久しく訪《たず》ねない鉄胤老先生の隠栖《いんせい》へも、御無沙汰《ごぶさた》のおわびをかねてその相談に訪ねて行って見ると、師には引き止
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