められるかと思いのほか、一生に一度はそういう旅をして来るのもよかろうとの老先生らしい挨拶《あいさつ》であった。
 その時になっても、まだ半蔵は右すべきか左すべきかの別れ路に迷っていた。彼は自分で自分に尋ねて見た。一筋の新しい進路は開けかかって来た、神の住居《すまい》も見えて来た、今は迷うところなくまッすぐにたどりさえすればいい、この期《ご》に臨んで何を自分は躊躇《ちゅうちょ》するのか、と。それに答えることはたやすそうで、たやすくない。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通の要路に立っていた。この世の動きは、否でも応でも馬籠駅長としての彼の目の前を通り過ぎた。どうして、新旧の激しい争いがさまざまの形をとってあふれて来ている今の時に、そんなことは一切おかまいなしで、ただ神を守りにさえ行けばそれでいいというものではなかった上に、いったん飛騨の山のような奥地に引ッ込んでしまえば容易に出て来られる境涯《きょうがい》とも思われなかったからで。
 こういう時に馬籠隣家の伊之助でもそばにいたら、とそう半蔵は思わないではなかった。いかんせん、親しくあの隣人の意見をたたいて見ることもかなわない。この飛騨行きについては、多吉夫婦も実際どう思っていてくれるかと彼は考えた。男まさりな宿のかみさんは婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかったような名もない町人の妻ではあるが、だんだん彼も付き合って見て、盤根錯節《ばんこんさくせつ》を物ともしないそのまれな気質を彼も知っていた。人は物を見定めることが大切で、捨つべきことは思い切りよく捨てねばならない、それのできないようなものは一生ウダツが揚がらないと、日ごろ口癖のように言っているのもお隅《すみ》だ。遠い親類より近い他人の言うこともよく聞いて見ようとして、やがて彼は町から引き返した。
 多吉の家では、ちょうど亭主も今の勤め先にあたる茅場町《かやばちょう》の店から戻《もど》って来ている時であった。そこへ半蔵が帰って行くと、多吉は彼を下座敷に迎え入れて言った。
「青山さん、いよいよ高山行きと定《きま》りましたかい。」
「いえ。」と半蔵は答えた。「わたしはまだお請けしたわけじゃありませんがね、まあ、行って働いて来るなら、今のうちでしょう。ずっと年を取ってから、行かれるような山の中じゃありませんからね。なかなか。」
 その時、多吉はお隅の方を見て言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ二十里あまりもある。そうさ、二十里あまりさ。それがまた大変な山道で、馬も通わないところだそうだ。青山さんも、えらい奮発さね。」
 そういう多吉はもう半蔵が行くことに定《き》めてしまっている。お隅は、と見ると、このかみさんもまたしいて彼を止めようとはしなかった。ちょうど師の鉄胤が彼に言ったと同じようなことを言って、これから神職を奉じに行く彼のために、遠く不自由な旅のしたくのことなぞを心配してくれる。
「多吉さん夫婦だけはおれを止めるかと思った。」
 間もなく二階に上がって行ってからの半蔵のひとり言《ごと》だ。
 実のところ、彼はだれかに引き止めてもらいたかった。そして一人《ひとり》でも引き止めるものがあったら、自分でも思い直して見ようと考えていたくらいだ。いかに言っても、これから彼が踏もうとする路《みち》は遠く寂しく険しい上に、そこいらはもはや見るもの聞くもの文明開化の風の吹き回しだ。何よりもまず中世の殻《から》を脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことの近《ちか》つ代《よ》であると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びする業《わざ》に心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。辺鄙《へんぴ》な飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。

       五

 長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全く鎖《とざ》されたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。
 はじめて唐船《からふね》があの長崎の港に来たのは永禄《えいろく》年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀《げんき》元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十|艘
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