のであったことを思い出した。その時の師岡正胤が扇面に書いて彼に与えたものは、この人にしてこの歌があるかと思われるほどの述懐で、おくれまいと思ったことは昔であるが、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いの寄せてあったことをも思い出した。
やがて彼は床を離れて、自分で二階の雨戸をくった。二つある西と北との小さな窓の戸をもあけて見たが、まだそこいらは薄暗いくらいだった。階下の台所に近い井戸のそばで水垢離《みずごり》を取り身を浄《きよ》めることは、上京以来ずっと欠かさずに続けている彼が日課の一つである。その時が来ても、おそろしく路《みち》に迷った夢の中のこころもちが容易に彼から離れなかった。そのくせ気分ははっきりとして来て、何を見ても次第に目がさめるような早い朝であった。雨も通り過ぎて行った。
「ゆうべは多吉さんもおそかったようですね。」
「青山さん、さぞおやかましゅうございましたろう。吾夫《うち》じゃあんなにおそく帰って来て、戸をたたきましたよ。」
問う人は半蔵、答える人は彼に二階の部屋《へや》を貸している多吉の妻だ。その時のお隅《すみ》の挨拶《あいさつ》に、
「まあ聞いてください。吾夫《うち》でも好きな道と見えましてね、運座でもありますとよくその方の選者に頼まれてまいりますよ。昨晩の催しは吉原《よしわら》の方でございました。御連中が御連中で、御弁当に酒さかななぞは重詰《じゅうづ》めにして出しましたそうですが、なんでも百韻とかの付合《つけあい》があって、たいへんくたぶれたなんて、そんなことを言っておそく帰ってまいりました。でも、あなた、男の人のようでもない。吉原まで行って、泊まりもしないで帰って来る――意気地《いくじ》がないねえ、なんて、そう言って、わたしは笑っちまいましたよ。」
「どうも、おかみさんのような人にあっちゃかないません。」
「ところが、青山さん、吾夫《うち》の言い草がいいじゃありませんか。おそく夜道を帰って来るところが、おれの俳諧《はいかい》ですとさ。」
多吉夫婦はそういう人たちだ。
十年一日のように、多吉は深川米問屋の帳付けとか、あるいは茶を海外に輸出する貿易商の書役《かきやく》とかに甘んじていて、町人の家に生まれながら全く物欲に執着を持たない。どこへ行くにも矢立てを腰にさして胸に浮かぶ発句《ほっく》を書き留めることを忘れないようなところは、風狂を生命とする奇人伝中の人である。その寡欲《かよく》と、正直と、おまけに客を愛するかみさんの侠気《きょうき》とから、半蔵のような旅の者でもこの家を離れる気にならない。
この亭主《ていしゅ》に教えられて半蔵がおりおりあさりに行く古本屋が両国|薬研堀《やげんぼり》の花屋敷という界隈《かいわい》の方にある。そこにも変わり者の隠居がいて、江戸の時代から残った俳書、浮世草紙《うきよぞうし》から古いあずま錦絵《にしきえ》の類を店にそろえて置いている。半蔵は亭主多吉が蔵書の大部分もその隠居の店で求めたことを聞いて知っていた。そういう彼も旅で集めた書物はいろいろあって、その中の不用なものを売り払いたいと思い立ち、午後から薬研堀を訪《おとな》うつもりで多吉の家を出た。
偶然にも半蔵の足は古本屋まで行かないうちに懇意な医者の金丸恭順がもとに向いた。例の新乗物町という方へ訪《たず》ねて行って見ると、ちょうど恭順も病家の見回りから帰っている時で、よろこんで彼を迎えたばかりでなく、思いがけないことまでも彼の前に持ち出した。その時の恭順の話で、彼はあの田中不二麿が陰ながら自分のために心配していてくれたことを知った。飛騨《ひだ》水無《みなし》神社の宮司に半蔵を推薦する話の出ているということをも知った。これはすべて不二麿が斡旋《あっせん》によるという。
恭順は言った。
「どうです、青山君、君も役不足かもしれないが、一つ飛騨の山の中へ出かけて行くことにしては。」
どうして役不足どころではない。それこそ半蔵にとっては、願ったりかなったりの話のように聞こえた。この飛騨行きについては、恭順はただ不二麿の話を取り次ぐだけの人だと言っているが、それでも半蔵のために心配して、飛騨の水無神社は思ったより寂しく不便なところにあるが、これは決して左遷の意味ではないから、その辺も誤解のないように半蔵によく伝えくれとの不二麿の話であったと語ったりした。
「いや、いろいろありがとうございました。」と半蔵は恭順の前に手をついて言った。「わたしもよく考えて見ます。その上で田中さんの方へ御返事します。」
「そう君に言ってもらうと、わたしもうれしい。時に、青山君、君におめにかけるものがある。」
と恭順は言いながら、黒く塗った艶消《つやけ》しの色も好ましい大きな文箱《ふばこ》を奥座敷の小襖《こぶすま》から取り出
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