いような気がして来る。途方に暮れているうちに、ある町の角《かど》なぞで、彼は平素それほど気にも留めないような見知らぬ人の目を見つける。その目は鋭く彼の方を見つつあるもののようで、
「あそこへ行くのは、あれはなんだ――うん、総髪《そうがみ》か」とでも言うように彼には感じられる。彼はまだ散切《ざんぎ》りにもしないで、総髪を後方《うしろ》にたれ、紫の紐《ひも》でそれを堅く結び束ねているからであった。そういう彼はまた、しいてそんな風俗を固守しているでもないが、日ごろの願いとする古い神社の方へ行かれる日でも来たら、総髪こそその神に仕える身にはふさわしいと思われるからでもあった。不思議にも、鋭く光った目は彼の行く先にある。どう見てもそれは恐ろしい目だ。こちらの肩をすくめたくなるような目だ。彼はそんな物言う目を洋服姿の諸官員なぞが通行の多い新市街の中に見つけるばかりでなく、半分まだ江戸の町を見るような唐物《とうぶつ》店、荒物店、下駄《げた》店、針店、その他紺の暖簾《のれん》を掛けた大きな問屋が黒光りのする土蔵の軒を並べた商家の空気の濃いところにすら見つける。どうかすると、そんな恐ろしい目はある橋の上を通う人力車の中にまで隠れている。こういうのが夢かしらん。そう思いながら、なおその心地をたどりつづけるうちに、大きな河《かわ》の流れているところへ出た。そこは郷里の木曾川《きそがわ》のようでもあれば、東京の隅田川《すみだがわ》のようでもある。水に棹《さお》さして流れを下って来る人がある。だんだんこちらの岸に近づいたのを見ると、その小舟をあやつるのは他の人でもない。それが彼の父吉左衛門だ。父はしきりに彼をさし招く。舟の中には手ぬぐいで髪をつつんだ一人《ひとり》のうしろ向きの婦人もある。彼は岸から父に声をかけて見ると、その婦人こそ彼を生んだ実の母お袖《そで》と聞かされて驚く。その時は彼も一生懸命に母を呼ぼうとしたが、あいにく声が咽喉《のど》のところへ干《ひ》からびついたようになって、どうしてもその「お母《っか》さん」が出て来ない。はるかに川上から橋の下の方へ渦巻《うずま》き流れて来る薄濁りのした水の勢いは矢のような早さで、見るまに舟も遠ざかって行く。思わず彼は自分で自分の揚げたうなり声にびっくりして、目をさました。
こんなに父母が夢にはいったのは、半蔵としてはめずらしいことだった。半年の旅の末にはこんな夢を見ることもあるものか。そう彼は考えて、まだ寝床からはい出すべき時でもない早暁の枕の上で残った夢のこころもちに浸っていた。いつでも寝返りの一つも打つと、からだを動かすたびにそんなこころもちの消えて行くのは彼の癖であったが、その明けがたにかぎって、何がなしに恐ろしかった夢の筋から、父母の面影までが、はっきりと彼の胸に残った。これまで彼が亡《な》き父を夢に見た覚えは、ただの一度しかない。青山の家に伝わる馬籠《まごめ》本陣、問屋《といや》、庄屋《しょうや》の三役がしきりに廃止になった後、父吉左衛門の百か日を迎えたころに見たのがその夢の記憶だ。その時にできた歌もまだ彼には忘れられずにある。
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亡《な》き人に言問《ことと》ひもしつ幽界《かくりよ》に通ふ夢路《ゆめじ》はうれしくもあるか
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こんな自作の歌までも思い出しているうちに、耳に入る冷たい秋雨の音、それにまじってどこからともなく聞こえて来る蟋蟀《こおろぎ》の次第に弱って行くような鳴き声が、いつのまにか木曾の郷里の方へ彼の心を誘った。彼は枕の上で、恋しい親たちの葬ってある馬籠万福寺の墓地を思い出した。妻のお民や四人の子の留守居する家の囲炉裏ばたを思い出した。平田同門の先輩も多くある中で、彼にはことに親しみの深い暮田正香をめずらしく迎え入れたことのある家の店座敷を思い出した。木曾路通過の正香は賀茂の方へ赴任して行く旅の途中で、古い神社へとこころざす手本を彼に示したのもあの先輩だが、彼と共にくみかわした酒の上で平田一門の前途を語り、御一新の成就のおぼつかないことを語り、復古が復古であるというのはそれの達成せられないところにあると語り、しまいには熱い暗い涙があの先輩の男らしい顔を流れたことを思い出した。彼はまた、松尾|大宮司《だいぐうじ》として京都と東京の間をよく往復するという先輩|師岡正胤《もろおかまさたね》を美濃《みの》の中津川の方に迎えた時のことを思い出し、その小集の席上で同門の人たちが思い思いに歌を記《しる》しつけた扇を思い出し、あるものはこうして互いにつつがなくめぐりあって見ると八年は夢のような気がするとした意味の歌を書いたことを思い出し、あるものは辛《から》いとも甘いとも言って見ようのない無限の味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のも
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