中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身を浄《きよ》めることを始めた。そして毎朝|水垢離《みずごり》を取る習慣をつけはじめた。
 今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の部屋《へや》にいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には台湾生蕃《たいわんせいばん》征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。
 いったん時代から沈んで行った水戸《みと》のことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられ、井伊大老もしくは安藤老中《あんどうろうじゅう》のような要路の大官にまで向けられたことを思い出した。彼はそれを眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波《つくば》の旗上げとなり、尊攘《そんじょう》の意志の表示ともなって、活《い》きた歴史を流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩《さつま》にも活き返りつつあるのかと疑った。
 彼は自分で自分に尋ねて見た。
「これでも復古と言えるのか。」
 その彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけない近《ちか》つ代《よ》であった。
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     第十一章

       一

 東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。常磐橋《ときわばし》内にある教部省では役所のひける時刻である。短い羽織に袴《はかま》をつけ、それに白足袋《しろたび》、雪駄《せった》ばきで、懐中にはいっぱいに書物をねじ込みながら橋を渡って行く人は、一日の勤めを終わった役所帰りの半蔵である。
 その日かぎり、半蔵は再び役所の門を潜《くぐ》るまい、そこに集まる同僚の人たちをも見まいと思うほどのいらいらした心持ちで、鎌倉河岸《かまくらがし》のところに黄ばみ落ちている柳の葉を踏みながら、大股《おおまた》に歩いて行った。もともと今度の上京を思い立って国を出た時から、都会での流浪《るろう》生活を覚悟して来た彼である。半年の奉職はまことに短かったとは言え、とにもかくにも彼は神祇局の後身ともいうべき教部省に身を置いて見て、平田一派の諸先輩がそこに残した仕事のあとを見ただけにも満足しようとした。例の浅草|左衛門町《さえもんちょう》にある多吉の家をさして帰って行くと、上京以来のことが彼の胸に浮かんで来た。ふと、ある町の角《かど》で、彼は足をとめて、ホッと深いため息をついた。その路《みち》は半年ばかり彼が役所へ往復した路である。柄《がら》にもない教部省御雇いとしての位置なぞについたのは、そもそも自分のあやまりであったか、そんな考えがしきりに彼の胸を往《い》ったり来たりした。
「これはおれの来《く》べき路ではなかったのかしらん。」
 そう考えて、また彼は歩き出した。
 仮の寓居《ぐうきょ》と定めている多吉の家に近づけば近づくほど、名のつけようのない寂しさが彼の胸にわいた。彼は泣いていいか笑っていいかわからないような心持ちで、教部省の門を出て来たのである。


 左衛門橋に近い多吉夫婦が家に戻《もど》って二階の部屋《へや》に袴をぬいでからも、まだ半蔵はあの常磐橋内の方に身を置くような気がしている。役所がひける前の室内の光景はまだ彼の目にある。そこには担当する課事を終わって、机の上を片づけるものがある。風呂敷包《ふろしきづつ》みを小脇《こわき》にかかえながら雑談にふけるものもある。そのそばには手で頤《おとがい》をささえて同僚の話に耳を傾けるのもある。さかんな笑い声も起こっている。日ごろ半蔵が尊信する本居宣長《もとおりのりなが》翁のことについて、又聴《またぎ》きにした話を語り出した一人《ひとり》の同僚がそこにある。それは本居翁の弟子《でし》斎藤彦麿《さいとうひこまろ》の日記の中に見いだされたことだというのである。ある日、彦麿はじめ二、三の内弟子が翁の家に集まって、「先生は実に活神様《いき
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