がみさま》だ」と話しながら食事していると、給仕の下女がにわかに泣き出したというのである。子細をたずねると、その女の答えるには、実はその活神様が毎晩のように自分の寝部屋へ見える、うるささのあまり、昨夜は足で蹴《け》ってやったが、そんな立派な活神様では罰が当たって、この足が曲がりはしないかと、それで泣いたのだと言われて、彦麿もあいた口がふさがらなかったというのである。それを聞くと、そこにいたものは皆笑った。その話をはじめた同僚はますます得意になって、「いったい、下女の寝部屋へはいり込むようなものにかぎって、人格者だ」とやり出す。この「人格者」がまた一同を笑わせた。半蔵は顔色も青ざめて、その同僚の口から出たような話がどこまで本当であるやもわからなかったし、また、斎藤彦麿の日記なるものがどこまで信用のできるものかもわからなかったから、それをくどく言い争う気にはならなかったが、しかしそこに集まる人たちが鬼の首でも取ったようにそんな話をして楽しむということに愛想《あいそ》をつかした。前に本居宣長がなかったら、平田|篤胤《あつたね》でも古人の糟粕《そうはく》をなめて終わったかもしれない。平田篤胤がなければ、平田|鉄胤《かねたね》もない。平田鉄胤がなければ、結局今の教部省というものもなかったかもしれない。そのことがとっさの間に彼の胸へ来た。思わず彼はその同僚の背中を目のさめるほど一つどやしつけて置いて、それぎり役所を出て来てしまった。それほど彼もいらいらとしていた。
 十月末のことで、一日は一日より深くなって行く秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物の屋根の向こうに沈んだ町の空が障子の開いたところから彼の目に映る。長いこと彼はひとりですわっていて、あたりの町のすべてが湿った空気に包まれて行くのをながめながら、自分で自分のしたことを考えた。
「いくら人の欠点を知ったところで、そんなことが何になろう。」
 と考えて、彼はそれを役所の同僚の話に結びつけて見た。
 彼はある人の所蔵にかかる本居翁の肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に与えたものの一つである。その清い眉《まゆ》にも涼しい目もとにも老いの迫ったという痕跡《こんせき》がなく、まだみずみずしい髪の髻《もとどり》を古代紫の緒《ひも》で茶筅風《ちゃせんふう》に結び、その先を前額の方になでつけたところは、これが六十一歳の翁かと思われるほどの人がその画像の中にいた。翁は自意匠よりなる服を造り、紗綾形《さやがた》の地紋のある黒縮緬《くろちりめん》でそれを製し、鈴屋衣《すずのやごろも》ととなえて歌会あるいは講書の席上などの式服に着用した人であるが、その袖口《そでぐち》には紫縮緬の裏を付けて、それがまたおかしくなかったと言わるるほどの若々しさだ。早く老《ふ》けやすいこの国の人たちの中にあって、どうしてそれほどの若さを持ち続け得たろうかと疑われるばかり。こんな人が誤解されやすいとしたら、それこそ翁の短所からでなくて、むしろ晩年に至るまでも衰えず若葉してやまなかったような、その長い春にこもる翁の長所からであったろうと彼には思われる。彼の心に描く本居宣長とは、あの先師平田篤胤に想像するような凜々《りり》しい容貌《ようぼう》の人ともちがって、多分に女性的なところを持っていた心深い感じのする大先輩であった。そして、いかにもゆったりとその生涯《しょうがい》を発展させ、天明《てんめい》の昔を歩いて行った近《ちか》つ代《よ》の人の中でも、最も高く見、最も遠く見たものの一人《ひとり》であった。そのかわり、先師篤胤は万事明け放しで、丸裸になって物を言った。そこが多くの平田門人らにとって親しみやすくもあったところだ。本居翁にはそれはない。寛《ひろ》いふところに、ありあまるほどの情意を包みながら、言説以外にはそれも打ち出さずに、終生つつましく暮らして行かれたようなその人柄は、内弟子にすら近づきがたく思われたふしもあったであろう。ともあれ、日ごろ彼なぞが力と頼む本居翁も口さがない人たちにかかっては、滑稽《こっけい》な戯画の中の人物と化した。先輩を活神様にして祭り上げる人たちは、また道化役者《どうけやくしゃ》にして笑いたがる人たちである。そんな態度が頼みがいなく思われる上に、又聞《またぎ》きにしたくらいの人の秘密をおもしろ半分に振り回し、下世話《げせわ》にいう肘鉄《ひじてつ》を食わせたはしたない女の話なぞに興がって、さも活神様の裏面に隠れた陰性な放蕩《ほうとう》をそこへさらけ出したという顔つきでいるそういう同僚を彼は片腹痛く思った。きく人もまたすこぶる満足したもののごとく、それを笑い楽し
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