裸商売の佃《つくだ》から来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面するかに見える。
旅の身の半蔵は、用達《ようた》しのついで、あるいは同門の旧知なぞを訪《たず》ねるためあちこちと出歩くおりごとに、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけられないことは、以前の彼が江戸出府のおりに得た最初の印象とそう変わりがないくらいであった。ここに住む老若男女の数も、彼にはおよそどれほどと言って見ることもできない。あるいは江戸時代よりはずっと減少していると言うものもあるし、あるいはこの新しい都の人口の増加は将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々の角《かど》に自身番もなく、番太郎小屋もない。わずかに封建時代の形見のような木戸のみの残ったところもある。旧城郭の関門とも言うべき十五、六の見附《みつけ》、その外郭にめぐらしてあった十か所の関門も多く破壊された。彼は多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、日比谷《ひびや》にある長州屋敷の打ち壊《こわ》しに出あったことを覚えているが、今度上京して見ると、その辺は一面の原だ。大小の武家屋敷の跡は桑園茶園に変わったところもある。彼が行く先に見つけるものは、かつて武家六分町人四分と言われたこの都会に大きな破壊の動いた跡を語って見せていないものはなかった。
でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ何間《なんげん》と数え、めずらしい煉瓦《れんが》建築の並んだ二階建ての家々の窓と丸柱とがいずれも同じ意匠から成るのをながめた。そこは明治五年の大火以来、木造の建物を建てることを禁じられてからできた新市街で、最初はだれ一人《ひとり》その煉瓦の家屋にはいる市民もなく、もし住めば必ず青ぶくれにふくれて、死ぬと言いはやされたという話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は香具師《やし》の巣である。二丁目の熊《くま》の相撲《すもう》、竹川町の犬の踊り、四丁目の角の貝細工、その他、砂書き、阿呆陀羅《あほだら》、活惚《かっぽれ》、軽業《かるわざ》なぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい繁昌《はんじょう》を約束するようなその界隈《かいわい》は新しいものと旧《ふる》いものとの入れまじりで雑然紛然としていた。
今は旅そのものが半蔵の身にしみて、見るもの聞くものの感じが深い。もはや駕籠《かご》もすたれかけて、一人乗り、二人乗りの人力車《じんりきしゃ》、ないし乗合馬車がそれにかわりつつある。行き過ぎる人の中には洋服姿のものを見かけるが、多くはまだ身についていない。中には洋服の上に羽織《はおり》を着るものがあり、切り下げ髪に洋服で下駄《げた》をはくものもある。長髪に月代《さかやき》をのばして仕合い道具を携えるもの、和服に白い兵児帯《へこおび》を巻きつけて靴《くつ》をはくもの、散髪で書生羽織を着るもの、思い思いだ。うわさに聞く婦人の断髪こそやや下火になったが、深い窓から出て来たような少女の袴《はかま》を着け、洋書と洋傘《ようがさ》とを携えるのも目につく。まったく、十人十色の風俗をした人たちが彼の右をも左をも往《い》ったり来たりしていた。
不思議な縁故から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして一時奉職する身となった。ちょうど教部省は、文部省と一緒に、馬場先《ばばさき》の地から常磐橋《ときわばし》内へ引き移ったばかりで、いろいろな役所の仕事に、国学の畑の人を求めている時であった。この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる。彼半蔵の本意はそういうところにあるではなく、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかりを得たいばかりに、わざわざ今度の上京となったのであるが、しばらく教部省に奉職して時機を待てとの不二麿の言葉もあり、それにむなしい旅食《りょしょく》も心苦しいからであった。教部省は神祇局《じんぎきょく》の後身である。平田一派の仕事は、そこに残っている。そんな関係からも、半蔵の心は動いて、師鉄胤をはじめ、同門諸先輩が残した仕事のあとをも見たいと考え、彼も不二麿の勧めに従った。
とりあえず、彼はこのことを国もとの妻子に知らせ、多吉方を仮の寓居《ぐうきょ》とするよしを書き送り、旅の心もやや定まったことを告げてやった。そういう彼はまだ斎《いつき》の道の途上にはあったが、しかしあの碓氷峠《うすいとうげ》を越して来て、両国《りょうごく》の旅人宿に草鞋《わらじ》を脱いだ晩から、さらに神田川《かんだがわ》に近い町
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