う人たちである。よくそれでも昔を忘れずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせた。
「お隅、青山さんは十年ぶりで出ていらしったとよ。」
そういう多吉も変われば、お隅も変わった。以前半蔵が木曾下四宿《きそしもししゅく》総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、紺木綿《こんもめん》の切れの編みまぜてある二足の草鞋《わらじ》をわざわざ餞別《せんべつ》として彼に贈ってくれたのもこの夫婦だ。
もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかではない。不二麿は尾州藩士の田中|寅三郎《とらさぶろう》と言ったころからの知り合いの間がらで、この人に彼は自己の志望を打ちあけ、その力添えを依頼した。旧領主|慶勝《よしかつ》公時代から半蔵父子とは縁故の深い尾州家と、名古屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩黌《はんこう》明倫堂《めいりんどう》に学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したことも、彼には偶然とは思われない。今は文部教部両省合併で、不二麿も文部|大丞《だいじょう》の位置にあるから、この省務一切を管理する人に引き受けてもらったことは、半蔵としても心強い。もっとも、不二麿は民知の開発ということに重きを置き、欧米の教育事業を視察して帰ってからはアメリカ風の自由な教育法をこの国に採り入れようとしていて、すべてがまだ端緒についたばかりの試みの時代だとする考え方の人であったが。
多吉はまた半蔵を見に来て言った。
「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、敵打《かたきう》ちの厳禁――そうです、敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親|兄弟《きょうだい》の讐《あだ》を勝手に復《かえ》すようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない、皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、葵《あおい》の御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ。」
東京まで半蔵が動いて見ると、昔|気質《かたぎ》の多吉の家ではまだ行燈《あんどん》だが、近所ではすでにランプを使っているところがある。夕方になると、その明るい光が町へもれる。あそこでも、ここでもというふうに。燈火《ともしび》すらこんなに変わりつつあった。
今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸《こうべ》大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまでもなく、また、日本紀元二千五百余年来、未曾有《みぞう》の珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を開いた影響はいよいよ日本人各自の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の好みにも、衣裳《いしょう》の色の移り変わりにもみて取ることができた。うす暗い行燈や蝋燭《ろうそく》をつけて夜を送る世界には、それによく映る衣裳の色もあるのに、その行燈や蝋燭にかわる明るいランプの時が来て見ると、今までうす暗いところで美しく見えたものも、もはや見られない。多吉の女房お隅はそういうことによく気のつく女で、近ごろの婦人が夜の席に着る衣裳の色の変わって来たことなぞを半蔵に言って見せ、世の中の流行が変わる前に、すでに燈火が変わって来ていると言って見せる。
多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、寄席《よせ》の芸人が口に上る都々逸《どどいつ》の類《たぐい》まで、英語まじりのものが流行して来たと言って半蔵を笑わせた。お隅は、一鵬斎芳藤《いちほうさいよしふじ》画《えが》くとした浮世絵なぞをそこへ取り出して来る。舶来と和物との道具くらべがそれぞれの人物になぞらえて、時代の相《すがた》を描き出してある。その時になって見ると、遠い昔に漢土の文物を採り入れようとした初めのころのこの国の社会もこんなであったろうかと疑わるるばかり。海を渡って来るものは皆文明開化と言われて、散切《ざんぎ》り頭をたたいて見ただけでも開化した音がすると唄《うた》われるほどの世の中に変わって来た。夏は素裸、褌《ふんどし》一つ、冬はどてら一枚で、客があると、どんな寒中でも丸裸になって、ホイ籠《かご》ホイ籠とかけ出す駕籠屋《かごや》なぞはもはや顔色がない。年じゅう素股《すまた》の魚屋から、
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