るいはそれの省いたのもある。その面《おもて》に刻した戒名にも、皆それぞれの性格がある。これは僧侶の賦与したものであるが、一面には故人らが人となりをも語っている。鉄巌宗寿庵主《てつがんそうじゅあんしゅ》のいかめしいのもあれば、黙翁宗樹居士《もくおうそうじゅこじ》のやさしげなのもある。その中にまじって、明真慈徳居士《みょうしんじとくこじ》、行年七十二歳とあるは半蔵の父だ。清心妙浄大姉《せいしんみょうじょうだいし》、行年三十二歳とは、それが彼の実母だ。彼は伊之助と共に、それらの位牌の並んでいる前を往《い》ったり来たりした。
 松雲は言った。
「時に、青山さん、わたしは折り入ってあなたにお願いがあります。御先祖の万福寺殿、それに徳翁了寿居士《とくおうりょうじゅこじ》御夫婦――お一人《ひとり》は万福寺の開基、お一人は中興の開基でもありますから、この二本の位牌だけはぜひとも寺にお残しを願いたい。」
 これには半蔵もうなずいた。

       三

 明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の生家《さと》へ世話しようとしたお粂《くめ》の縁談を断念し、残念ながら結納品《ゆいのうひん》をお返し申すとの手紙を添え、染め物も人に持たせてやって、稲葉家との交渉を打ち切った。お粂はもとより、文字どおりの復活を期待さるる身だ。彼が暮田正香の言葉なぞを娘の前に持ち出して見せ、多くの国学諸先輩が求めようとしたのも「再び生きる」ということだと語り聞かせた時、お粂は目にいっぱい涙をためながら父の励ましに耳を傾けるほどで、一日は一日よりその気力を回復して来ている。妻のお民は、と見ると、泣いたあとでもすぐ心の空の晴れるようなのがこの人の持ち前だ。あれほど不幸な娘の出来事からも、母としてのお民は父としての彼が受けたほどの深い打撃を受けていない。それに長男の宗太も十七歳の春を迎えていて、もはやこれも子供ではない。今は留守中のことを家のものに頼んで置いて、自己の進路を開拓するために、しばらく郷里を離れてもいい時が来たように彼には思われた。
 半蔵が旅に出る前のこと。ある易者が来て馬籠《まごめ》の旅籠屋《はたごや》に逗留《とうりゅう》していた。めずらしく半蔵は隣家の伊之助にそそのかされて、その旅やつれのした易者を見に行った。古い袋から筮竹《ぜいちく》を取り出して押し頂《いただ》くこと、法のごとくにそれを数えること、残った数から陰陽を割り出して算木《さんぎ》をならべること、すべて型どおりに行なったあとで、易者はまず伊之助のためにその年の運勢を占ったが、卦《け》にあらわれたところは至極《しごく》良い。砕いて言えば、願う事の成就《じょうじゅ》するかたちである。商売をすれば当たるし、尋ね物は出るし、待ち人は来るし、縁談はまとまるという。ところが、半蔵の順番になって、易者はまた彼のためにも占ったが、好運な隣人のような卦は出なかった。
 その時の半蔵を前に置いて、首をひねりながらの易者の挨拶《あいさつ》に、
「どうも、あなたが顔色の艶《つや》から言っても、こんなはずはないと思われるのですが。易のおもてで言いますると、この卦に当たった人は運勢いまだ開けずとあきらめて、年回りを畏《おそ》れ、随分身をつつしみ、時節の到来を待てとありますな。これはよいと申し上げたいが、どうもそう行きません。まあ、本年いっぱいはお動きにならない方がよろしい。」
 とある。
 半蔵はこの易者を笑えなかった。家に戻《もど》って旅のしたくを心がける間にも、彼は易者に言われたことから名状しがたい不安を引き出された。そういう彼が踏んで行くところは、歩けば歩くほど路《みち》も狭く細かったが、なお、先師没後の門人に残されたものは古い神社の方角にあると考えて、一歩たりともその方に近づく手がかりの与えらるることを念じた。神社に至るの道はまず階段を踏まねばならないと同じ道理で、彼とてもその手段を尽くさねばならなかった。これは万福寺の住職なぞが言うところの出家の道に似て、非なるものである。彼の願いは神から守られることばかりでなく、神を守りに行くことであった。しかし、この事はまだ家のものにも話さずにある。彼は見ず知らずの易者なぞに自分の運勢を占ってもらったことを悔いた。
 五月中旬のはじめに彼は郷里を出発したが、親しい人たちの見送りも断わり、供も連れずであった。過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは元治《げんじ》元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。新しい郡県の政治もまだようやく端緒についたばかりのような時で、木曾谷は三大区にわかたれ、大小の区長のほかに学区取り締まりなるものもでき、谷中村々の併合もそこここに行なわ
前へ 次へ
全123ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング