れていた。その後の山林事件の成り行きも心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの御嶽遙拝所《おんたけようはいじょ》の立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た。松本まで彼が動いた時は、ちょうどこの時勢に応ずる教育者のための講習会が筑摩《ちくま》県主催のもとに開かれているおりからであった。松本宮村町|瑞昌寺《ずいしょうじ》、それが師範学科の講習所にあてられたところで、いずれも相応な年配の人たちが県庁の募集に応じて集まって来ていた。半蔵が自分の村の敬義学校のために一人の訓導を見つけたのも、その松本であった。早速《さっそく》彼はその人を推薦することにした。今こそ馬籠でも万福寺を仮教場にあてているが、寺の付近に普請中の仮校舎も近く落成の運びであることなぞをもその人に告げた。小倉啓助がその人の名で、もと禰宜《ねぎ》の出身であるという。至極|直《ちょく》な人物である。このよさそうな教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の苦心を積み、山里に生まれて良師のないのを悲しみ、未熟な自分を育てようとしたばかりでなく、同時に無知な村の子供を教えることから出発したような男で、子弟教育のことにかけては人一倍の関心を抱《いだ》いているのである。
新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心|得《う》べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙《けいもう》ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの類《たぐい》だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に併《あわ》せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻《しおじり》、下諏訪《しもすわ》から追分《おいわけ》、軽井沢《かるいざわ》へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠《うすいとうげ》を下った。
半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰《ぼしん》以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする西郷隆盛《さいごうたかもり》ら、欧米の大に屈して朝鮮の小を討《う》とうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通《おおくぼとしみち》らの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜《よしのぶ》を倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論《せいかんろん》をめぐって、互いにその正反対をかつての朋友《ほうゆう》に見いだしたのであった。
明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙な展《ひら》きは決してそう順調に成し就《と》げられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日
前へ
次へ
全123ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング