った。生まれは三留野《みどの》で、お島というのがその女の名だった。宿役人一同承知の上で寺にいれたくらいだから、その人とて肩身の狭かろうはずもなかったが、それでも周囲との不調和を思うかして、生前は本堂へも出なかった。世をいといながら三時の勤行《ごんぎょう》を怠らない和尚を助けて、お島は檀家《だんか》のものの受けもよく、台所から襷《たすき》をはずして来てはその囲炉裏で茶をもてなしてくれたことを半蔵らも覚えている。亡《な》い人の数に入ったその女のために、和尚が形見の品を旧本陣や伏見屋にまで配ったことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。
 髪結い直次のような老練な職人の腕にも、和尚の頭は剃りにくいかして、半蔵らはかなり待たされた。それを待つ間、彼は伊之助と共にその囲炉裏ばたを離れて、和尚の造った庭を歩き回りに出た。やがて十三、四ばかりになる歯の黄色い徒弟僧の案内で、半蔵は和尚の方丈に導かれた。
「これは。これは。」
 相変わらずの調子で半蔵らを迎えるのは松雲だ。客に親疎を問わず、好悪《こうお》を選ばずとはこの人のことだ。ことに頭は剃りたてで、僧貌も一層柔和に見える。本堂の一部を仮の教場にあててから、半蔵を助けて村の子供たちを教えているのもこの和尚だが、そういう仕事の上でかつていやな顔を彼に見せたこともない。しばらく半蔵はその日の来意を告げることを躊躇《ちゅうちょ》した。というのは、対坐《たいざ》する和尚の沈着な様子が容易にそれを切り出させないからであった。それに、彼はこの人が仏弟子《ぶつでし》ながら氏神をも粗末にしないで毎月|朔日《ついたち》十五日には荒町《あらまち》にある村社への参詣《さんけい》を怠らないことを知っていたし、とても憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主であることをも知っていたからで。
 しかし、半蔵の思い立って来たことは種々《さまざま》な情実やこれまでの行きがかりにのみ拘泥《こうでい》すべきことではなかった。彼は伊之助と共に、筑摩《ちくま》県からの布告の趣意を和尚に告げ、青山小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々|斎米《ときまい》二斗ずつを寺に納め来たったもので、それもこの際、廃止すべきところであるが、旧義を存して明年からは米一斗ずつを贈るとも付け添えた。この改典は廃仏を意味する。これはさすがの松雲をも驚かした。なぜかなら、この万福寺を建立《こんりゅう》したそもそもの人は、そういう半蔵が祖先の青山|道斎《どうさい》だからである。また、かつて松雲がまだ僧|智現《ちげん》と言ったころから一方ならぬ世話になり、六年|行脚《あんぎゃ》の旅の途中で京都に煩《わずら》った時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂の屋根の葺《ふ》き替えから大太鼓の寄付まで何くれとめんどうを見てくれたことのあるのも、伊之助の養父金兵衛だからである。
「いや、御趣意のほどはわかりました。よくわかりました。わたしは他の僧家とも違いまして、神道を基とするのが自分の本意ですから、すこしもこれに異存はありません。これと申すも皆、前世の悪報です。やむを得ないことです。まあ、お話はお話として、お茶を一つ差し上げたい。」
 そう言いながら、松雲は座を立った。ぐらぐら煮立った鉄瓶《てつびん》のふたを取って水をさすことも、煎茶茶碗《せんちゃぢゃわん》なぞをそこへ取り出すことも、寺で製した古茶を入れて慇懃《いんぎん》に客をもてなすことも、和尚はそれを細心な注意でやった。娑婆《しゃば》に生涯《しょうがい》を寄せる和尚はその方丈を幻の住居《すまい》ともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。でも、冷たく無関心になったこの世の人の心をどうかして揺り起こしたいと考えるような平田門人なぞの気分とはあまりにも掛け離れていた。
「どれ、位牌堂《いはいどう》の方へ御案内しましょう。おそかれ早かれ、こういう日の来ることはわたしも思っておりました。神葬祭のことは、あれは和宮《かずのみや》さまが御通行のころからの問題ですからな。」
 という和尚は珠数《じゅず》を手にしながら、先に立って、廊下づたいに本堂の裏手へと半蔵らを導いた。霊膳《れいぜん》、茶、香花《こうげ》、それに燭台《しょくだい》のそなえにも和尚の注意の行き届いた薄暗い部屋《へや》がそこにあった。
 青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。恵那山《えなさん》のふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい万福寺殿昌屋常久禅定門《まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん》の戒名で、位牌堂の中央に高く光っているのも目につく。黒くうるしを塗った大小の古い位牌には、丸に三つ引きの定紋を配したのがあり、あ
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