めて、震えるほど力を入れていた。無言の悲しみを制《おさ》えるかのように。
 その晩はもはや宵《よい》から月のあるころではなかった。店座敷の障子にあの松の影の映って見えたころは、毎晩のようにお粂もよく裏庭の方へ歩きに出て、月の光のさし入った木の下なぞをあちこちあちこちとさまよった。それは四、五日前のことでお民も別に気にもとめずにいた。その晩のように月の上るのもおそいころになって、また娘が勝手口の木戸から屋外《そと》へ歩きに出るのを見ると、お民は嫁入り前のからだに風でも引かせてはとの心配から、土間にある庭下駄もそこそこに娘を呼び戻《もど》しに出た。底青く光る夜の空よりほかにお民の目に映るものもない。勝手の流しもとの外あたりでは、しきりに虫がなく。
「お粂。」
 その母親の呼び声を聞きつけて、娘は暗い土蔵の前の柿《かき》の木の下あたりから引き返して来た。
 その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであった。下男の佐吉は裏の木小屋に忘れ物をしたと言って、それを取りに囲炉裏ばたを離れたぎり容易に帰って来ない。そのうちに引き返して来て、彼が閉《し》めて置いたはずの土蔵の戸が閉まっていないことを半蔵にもお民にも告げた。その時は裏の隠居所から食事に通うおまんもまだ囲炉裏ばたに話し込んでいた。見ると、お粂がいない。それから家のものが騒ぎ出して、半蔵と佐吉とは提灯《ちょうちん》つけながら土蔵の方へ急いだ。おまんも、お民もそのあとに続いた。暗い土蔵の二階、二つ並べた古い長持のそばに倒れていたのは他のものでもなかった。自害を企てた娘お粂がそこに見いだされた。
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     第十章
       一
 青山の家に起こった悲劇は狭い馬籠《まごめ》の町内へ知れ渡らずにはいなかった。馬籠は飲用水に乏しい土地柄であるが、そのかわり、奥山の方にはこうした山地でなければ得られないような、たまやかな水がわく。樋《とい》を通して呼んである水は共同の水槽《すいそう》のところでくめる。そこにあふれる山の泉のすずしさ。深い掘り井戸でも家に持たないかぎりのものは、女でも天秤棒《てんびんぼう》を肩にかけ、手桶《ておけ》をかついで、そこから水を運ばねばならぬ。南側の町裏に当たる崖下《がけした》の位置に、静かな細道に添い、杉《すぎ》や榎《えのき》の木の影を落としているあたりは、水くみの女 
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