た。

       五

 正香は一晩しか半蔵の家に逗留《とうりゅう》しなかった。
「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ。」
 との言葉を残して、翌朝早く正香は馬籠《まごめ》を立とうとしていた。頼んで置いた軽尻馬《からじりうま》も来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞを鞍《くら》に結びつけた。
「お母《っか》さん、暮田さんのお立ちですよ。」
 と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。
「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください。」
 とお民は言った。
 半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く檜笠《ひのきがさ》が坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢《いせ》神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った昔は、歴代の内親王《ないしんのう》が一人《ひとり》は伊勢の斎《いつき》の宮《みや》となられ、一人は賀茂の斎の宮となられる風習となっていたと聞くことなぞをも語り聞かせた。
 正香も行ってしまった。例のように半蔵はその日も万福寺内の敬義学校の方へ村の子供たちを教えに出かけて、相手と頼む松雲和尚《しょううんおしょう》にも前夜の客のことを話したが、午後にそこから引き返して見ると、正香の立って行ったあとには名状しがたい空虚が残った。半蔵はそこにいない先輩の前へ復古の道を持って行って考えて見た。彼の旧《ふる》い学友、中津川の景蔵や香蔵などが寝食も忘れるばかりに競い合って、互いに突き入ったのもその道だ。そこには四つの像がある。彼は自分の心も柔らかく物にも感じやすい年ごろに受けた影響がこんなにも深く自分の半生を支配するかと思って見て、心ひそかに驚くことさえある。彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。
 その時になって見ると、先師没後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった
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