たらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力をかつぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。征韓《せいかん》、征韓――あの声はどうです。もとより膺懲《ようちょう》のことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろ楯《だて》なしに、そんな力がかつぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかもしれないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世をのがれよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」
酒の酔いが回るにつれて、正香は日ごろ愛誦《あいしょう》する杜詩《とし》でも読んで見たいと言い出し、半蔵がそこへ取り出して来た幾冊かの和本の集注を手に取って見た。正香はそれを半蔵に聞かせようとして、何か自身に気に入ったものをというふうに、浣花渓《かんかけい》の草堂の詩を読もうか、秋興八首を読もうかと言いながら、しきりにあれかこれかと繰りひろげていた。
「ある。ある。」
その時、正香は行燈《あんどん》の方へすこし身を寄せ、一語一句にもゆっくりと心をこめて、杜詩の一つを静かに声を出して読んだ。
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※[#「糸+丸」、第3水準1−89−90]袴不[#二]餓死[#一]、儒冠多誤[#レ]身
丈人試静聴、賤子請具陳
甫昔少年日、早充[#二]観国賓[#一]
読[#レ]書破[#二]万巻[#一]、 下[#レ]筆如[#レ]有[#レ]神
賦料[#二]楊雄敵[#一]、詩看[#二]子建親[#一]
李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]求[#レ]識[#レ]面、王翰願[#レ]卜[#レ]隣
自謂頗挺出、立登[#二]要路津[#一]
致[#二]君堯舜上[#一]、再使[#二]風俗淳[#一]
此意竟蕭条、……………
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そこまで読みかけると、正香はその先を読めなかった。「この意《こころ》、竟《つい》に蕭条《しょうじょう》」というくだりを繰り返し半蔵に読み聞かせるうちに、熱い涙がその男らしい頬《ほお》を伝って止め度もなく流れ落ち
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