地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄《くらさわよしゆき》を出し、南には片桐春一《かたぎりしゅんいち》、北原稲雄、原|信好《のぶよし》を出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布《じょうぼくはんぷ》に、山吹社中発起の条山《じょうざん》神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき谷間《たにあい》であった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官《だじょうかん》中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、帝《みかど》には国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。

       六

 王政第六の秋立つころを迎えながら、山里へは新時代の来ることもおそい。いよいよ享保《きょうほう》以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。山林規則の何たるをわきまえないものが窮迫のあまり、官有林にはいって、盗伐の罪を犯し処刑をこうむるものは増すばかり。そのたびに徴せらるる贖罪《しょくざい》の金だけでも谷中ではすくなからぬ高に上ろうとのうわささえある。
 世は革新の声で満たされている中で、半蔵が踏み出して見た世界の実際すらこのとおり薄暗い。まして娘お粂なぞの住んでいるところは、長いこと彼女らのこもり暮らして来た深い窓の下だ。そこにある空気はまだ重かった。
 こころみに、十五代将軍としての徳川慶喜《とくがわよしのぶ》が置き土産《みやげ》とも言うべき改革の結果がこの街道にもあらわれて来る前までは、女は手形なしに関所も通れなかった時代のあったことを想像して見るがいい。従来、「出女《でおんな》、入り鉄砲」などと言われ、女の旅は関所関所で
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