まったが、一同待ち受ける妻籠《つまご》からの寿平次、実蔵、それに木曾福島からのお粂《くめ》夫婦はまだ見えなかった。なんと言っても旧本陣のことで、以前から縁故の深かった十三人の百姓の家のもの、大工、畳屋から髪結いまでがそこへ来て、半蔵生前の話が尽きない。あるものは子供の時分、本陣の裏庭へ巴旦杏《はたんきょう》を盗みに忍び入って、うしろからうんと一つどやしつけられたが、その人がお師匠さまであったことは今だに忘れられないとの話をはじめる。その話をはじめたものはまた、半蔵が袂《たもと》の中にいっぱい蜜柑《みかん》を入れていてよく村の児童《こども》に分け与えるような幼いものの友だちであったと言い、自分もまたその蜜柑に誘われてお師匠さまの家に通いはじめ、その時から読み書きの道を覚えたことも忘れられないなぞと語り出す。
明治十九年十一月二十九日の夜のことで、戸の外へはまた深い山の雨が来た。勝重はその初冬らしい雨の音をききながら、互いに膝《ひざ》をまじえている村の人たちの思い出に耳を傾けて、そんな些細《ささい》な巴旦杏や蜜柑の話に残る師匠が人柄のゆかしさを思った。
翌日の午後、勝重は伏見屋の主人(二代目伊之助)と連れだって万福寺の門前に出た。寺より譲り受ける墓地の交渉もまとまったので、勝重らはその挨拶《あいさつ》を兼ね、ついでに師匠を葬るべき場所を見回りたいためであった。なお、師匠の葬儀は十二月|朔日《ついたち》と定《き》まったので、寺の境内を式場に借りうけるため、宗太から頼まれて来た打ち合わせの用事もあった。この事は青山小竹両家が神葬改典の当時に、半蔵や初代伊之助と松雲和尚との間にかわされた口約束による。勝重もほとんど不眠の一夜を師匠の霊前に送ったあとなので、懇意な伏見屋方で二時間ばかり寝かしてもらったが、またその日には妻籠の連中やお粂夫婦を迎えて今一夜師匠の棺の前に語り明かすはずである。おまけに、次ぎの日の葬儀を控えている。でも、男ざかりの彼は、どんな無理してもこの激しい疲労に打ち勝ち、生前格別の世話になった師匠の温情にむくいようとした。
ちょうど松雲和尚は、万福寺建立以来の青山家代々が恩誼《おんぎ》を思い、ことに半蔵とは敬義学校時代のよしみもあるので、和尚は和尚だけのこころざしを受けてもらいに、旧本陣まで今々行って来たというところであった。松雲は勝重らを方丈に迎え入
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