一度旧本陣の屋根の下へと帰って行ったのである。その旧主人の死体を蒲団《ふとん》ぐるみ抱きかかえながら木小屋から母屋《もや》へと持ち運んだのは、おもに下男佐吉の力であった。それには以前に出入りした百姓仲間の兼吉や桑作の手伝いもあった。宗太はじめ、三郎、益穂らはいずれも雨傘《あまがさ》をさしかけて、その前後を護《まも》って行った。


 半蔵の死が馬籠以外の土地へも通知されて行くころには、近在から弔《くや》みを言い入れに集まる旧《ふる》い弟子たちもすくなくなかったが、その中でだれよりも先に急いで来たものは落合の勝重であった。
 勝重が思い出の深い本陣屋敷に来て見た時は、師匠の遺骸はすでに奥の上段の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢で義理ある子を先立てたおまんにも、それから宗太夫婦にも厚く弔みを述べた。奥座敷の方へも進んで行って、神葬の古式による清げな白木の壇の前にひざまずき、畳の上に額《ひたい》をすりつけて、もはやこの世の一切の悲しいや苦しいも越えているように厳粛《おごそか》な師匠の死顔を拝した。まだ棺もできては来ず、荒町の禰宜《ねぎ》の顔も見えなかったが、そこいらには馬籠町内の重立った人たちも集まっていた。埋葬の場処は、と勝重が宗太に尋ねると、家政改革後は倹約第一の場合ででもあるから、万福寺山腹に古くからある墓地の片すみをえらむことにして、そのことはすでに寺へも通じてあるという。これには勝重はひどく残念がって、なんとかしてもっと適当な場処を求めなるべく手厚く師匠を葬りたいと言い、墓地続きの寺の畠《はたけ》でも譲り受けられるなら、及ばずながらその費用等は自分ら弟子仲間で心配するとの意見をそこへ持ち出した。というのは、青山家の墓地も先祖代々のたくさんな墓石で埋《うず》められ、ほとほと割り込むすきもないことを勝重もよく知っていたからであった。
「どうも、お弟子が来て厄介《やっかい》なことを言い出したぞ。」
 宗太の目がそれを言った。でも、こんなに父の死を惜しんでくれる人たちもあるというその熱い情《こころ》に動かされて、宗太も倹約一方の説を覆《くつがえ》し、結局勝重の意見をいれた。栄吉や清助は宗太の意を受けて、改めて埋葬の地を相するため雨の中を出かけた。
 悲しい夜が来た。霊前には親戚《しんせき》旧知のものが集
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