た面でも、そこに残存するものはもはや過去の形見だ。一切の殻《から》が今はかなぐり捨てられた。護摩《ごま》の儀式も廃されて、白膠木《ぬるで》の皮の燃える香気もしない。本殿の奥の厨子《ずし》の中に長いこと光った大日如来《だいにちにょらい》の仏像もない。神前の御簾《みす》のかげに置いてあった経机もない。高山をその中心にし、難行苦行をその修業地にして、あらゆる寒さ饑《ひも》じさに耐えるための中世的な道場であったようなところも、全く面目を一新した。過去何百年の山王を誇った御嶽大権現の山座は覆《くつがえ》されて、二柱の神の古《いにしえ》に帰って行った。杉と檜の枝葉を通して望まれる周囲の森と山の空気、岩づたいに落ちる細い清水の音なぞは、社殿の奥を物静かにする。しばらく半蔵はそこに時を送って、自分の娘のためにも祷《いの》った。
 禰宜のもとに戻《もど》ってから、半蔵は山でもながめながらその日一日王滝の宿に寝ころんで行くことにきめた。宮下の主人は馳走《ちそう》ぶりに、風呂《ふろ》でも沸かそうから、寒詣《かんもう》でや山開きの季節の客のために昔から用意してある行者宿の湯槽《ゆぶね》にも身を浸して、疲れを忘れて行けと言ってくれた。
 午後には五平の方から半蔵を訪《たず》ねて来て、短冊《たんざく》を取り寄せたり、互いに歌をよみかわしたりするような、ささやかな席が開けた。そこへ紅《あか》い毛氈《もうせん》を持ち込み、半折《はんせつ》の画箋紙《がせんし》なぞをひろげ、たまにしか見えない半蔵に何か山へ来た形見を残して置いて行けと言い出すのは禰宜だ。子息も来て、そのそばで墨を磨《す》った。そこいらには半蔵が馬籠から持って来た歌書なども取り散らしてある。簀巻《すま》きにして携えて来た筆も置いてある。求めらるるままに、彼は自作の旧《ふる》い歌の一つをその紙の上に書きつけた。
[#ここから2字下げ]
おもふどちあそぶ春日《はるひ》は青柳《あおやぎ》の千条《ちすじ》の糸の長くとぞおもふ    半蔵
[#ここで字下げ終わり]
 五平はそのそばにいて、
「これはおもしろく書けた。」
「でも、この下の句がわたしはすこし気に入らん。」と半蔵は自分で自分の書いたものをながめながら、「思うという言葉が二つ重なって、どうも落ちつかない。」
「そんなことはない。」
 と五平は言っていた。
 時には、半蔵は席を離れて、なが
前へ 次へ
全245ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング