めを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木の梢《こずえ》の重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に入山《いりやま》伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。
 もはや、温暖《あたたか》い雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。山鶯《やまうぐいす》もしきりになく。五平が贄川《にえがわ》での再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つ靄《もや》が谷をこめた。そろそろ燈火《あかり》のつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい徒然《つれづれ》に身をまかせていた。
 翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの参詣者《さんけいしゃ》の中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、鉢巻《はちまき》も白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする金剛杖《こんごうづえ》もめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中|不二麿《ふじまろ》が消息を伝えるころである。過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな土産《みやげ》をもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意の的《まと》となっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七
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